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2011.04.08

カンボジアの伝統的な絹織物を復興し、
同国の農村活性化モデルを創造する

カンボジアの農村が、数十年におよぶ内戦から復興できていないことに心を痛めた絹織物専門家の森本喜久男氏は、1990年代にそれまで仕事を行っていたタイを離れ、カンボジアに絹織物の工房を建設するために拠点を移しました。森本氏の目的は、貧困にあえぐカンボジアの人たちを支援して伝統的な絹織物の生産を復活させることにありました。森本氏の構想は拡がり続け、現在は伝統織物の生産に必要な木々を植樹し、伝統技術を復興させ、文化遺産級の織物を制作する人を含む何百人もの人々に雇用機会を提供しています。次の目標は、カンボジアの農村活性化モデルとなる新しい村を作ることです。

自らの技術で「失われた世代」を取り戻したい

数十年にわたる内戦の結果、カンボジアの人口構成は老人や若者が多く、30歳~50歳が極端に少ない歪んだものになってしまいました。過去の知恵を新しい世代に伝承していくはずの、この「失われた世代」の欠落により伝統技術や文化的知識の断絶が起こっています。これもカンボジア内戦がもたらしたのです。

ようやく、カンボジア文化の至宝とされる古代寺院アンコールワット周辺に、平和が戻りつつあります。そしてアンコール遺跡から数キロ離れたシエムリアップの町で暮らす森本喜久男氏が、伝統的な織物を復興させるプロジェクトを進めています。「伝統の森再生計画(Project of Wisdom from the Forest)」と呼ばれるこのプロジェクトは、9世紀から14世紀に栄えたクメール帝国の中心地で、伝統的な絹織物を復活させ、現在そして将来のカンボジアを支えるモデルを構築することを目的としています。

古代の栄光をわずかに残すのみであった現代のカンボジアを目の当たりにした森本氏は、自分の技術を役立てたいと考えました。「カンボジアの人々が飢えている状態をなんとかしたいと思った」と言います。 農村活性化のモデルとしてカンボジアの伝統的な絹織物を復興させる計画と、それを実現するための現実的なアプローチが評価され、森本氏はロレックス賞の受賞者に選ばれました。森本氏の卓越したプロジェクトは、人材の育成だけに留まりません。荒廃した地方の森林再生から、絹織物工房の自立、アンコールを訪れる外国人観光客への絹織物の販売に至るまで、絹織物制作の全てのプロセスにわたっています。

1980年代に始まった、絹織物の理想郷をめざす旅

シエムリアップにある2つの建物では、機織や染色作業に従事する何百人ものカンボジア人が働いています。その多くは他に生活手段を持ちえなかった若い女性で、彼女たちの真剣な働きによって伝統が継承されています。森本氏は「私たちのプロジェクトが成功を収めてきたのは、私の努力よりも貧困という現実に負うところが大きいのです」と述べています。

故郷の京都で友禅染職人をしていた森本氏は、自然と職人、作品と顧客を調和させるという夢を実現させようとしています。彼が選んだ、文字どおり「100%天然素材」であるシルクは化繊のものより、身につける人にとって心地よいだけでなく、その制作過程そのものも織り手にとってより喜ばしいものです。なぜなら、こうしたやり方が、村の生活の基盤となる持続的な経済活動の復興につながり、個人の暮らしを成立させるからです。

森本氏は、決して浮世離れした環境保護論者ではなく、企業のマネジャー、難民キャンプの教師やカンボジアのユネスコのコンサルタントを務めるなど、多彩な仕事を経験してきた京都の友禅染職人です。その森本氏が、カンボジア絹織物産業の救世主的存在に至るまでの旅路は、タイで農村織物事業の振興活性化に関わっていた1980年代に始まります。伝統的な技術が失われる危機を感じた森本氏は、迅速に仕事を始めました。1996年、プノンペン郊外に非政府組織「クメール伝統織物研究所(IKTT)」を設立。2000年には、農村再生に対する自身の考えを明確に実証し確立するため、施設を「都会のジャングル」の首都プノンペンから、地方に密着した真の「農村型研究室」といえるシエムリアップに移設しました。それを強く推し進めたのは、森本氏が「空腹では、芸術はおろか、希望さえも持てない」という考えに至っていたからです。

困難を極めた、素材の森の再生

絹織物の理想郷をめざす終わりなき旅とも思えるプロジェクトの次の目標は、いくつかの施設をつくることです。まず、シエムリアップから北東に23キロ離れたチョットサムという地域の5ヘクタールの土地に、植林地域を含む村をつくりました。この村では、スタッフがともに共同生活をしながら、伝統織物の生産に必要な木や植物を育て、生産活動を行います。

内戦によって、蚕の餌になる桑の木は薪として切り倒されてしまいました。同様に、染色に使われる藍やその他の植物、さらにカンボジアの最も代表的な臙脂(えんじ)色の染料となるラックカイガラムシの巣が生成される木も失われました。

カンボジアでの森林再生は地雷除去が伴うため、他のどの地域よりも困難を伴います。森林再生プロジェクトには2003年5月の時点で20人あまりのカンボジア人が従事しており、最終的に織物「工房」が本当の意味で自給自足できるよう、菜園や家畜のためのスペースもつくられる予定です。また、綿と絹との混紡布地を生産するために、綿花の栽培も計画しています。

絹は桑の葉を食べる蚕が作る繭から得るものです。集められた繭は煮沸され、生糸が引かれます。養蚕技術は世界中どこでも共通していますが、蚕は地域によって違います。カンボジアでは熱帯気候に順応した在来種の「黄色い」繭を作る蚕が飼育され、中国や日本のような温帯地域では、生産性を高めた改良種の「白い」繭の蚕が飼育されます。

クメールでの蚕に関する最初の記録は8世紀までさかのぼり、またアンコール遺跡の彫像にもその様子が刻まれています。カンボジア産の最上級の絹織物は手間をかけて先染めされた糸で織り上げられる、絣の技法によって織られます。これは機械では真似のできない精緻な作業によって生み出されます。

失われつつあった、世界に誇るカンボジアの伝統文化

カンボジアにおける伝統織物は20世紀後半に急速に衰退しました。その要因は戦争だけでなく、新しい技術や合成繊維の出現にもあります。プロジェクト開始当初の1990年代半ば、カンボジアの絹織物はあまりにも衰退していたため、森本氏はまず、もう一度技術を教えることのできる絹織物の熟練者を探し出さなくてはなりませんでした。

森本氏によれば、実のところ、かつてカンボジアの絹絣は、日本のものを凌ぐほどで、日本の着物が日本文化を代表するのと同じように、カンボジア文化において最も重要な位置を占めていました。しかし、内戦中に伝統技術が失われ、博物館級の文化財が大量に海外に流出してしまったために、若い世代は古いカンボジア文化の重要な部分を全く知らないのです。

カンボジアを訪れた森本氏は、都市部の中流層が存在せず、ほとんどの人々が農村の貧困層であることに気づきました。わずかに残されていた絹織物産業に儲け主義の中間業者が介入し、織り手たちは低賃金で、輸入生糸を使った粗悪な布を織っていました。それは他の場所で生産されたどのポリエステルや合成繊維と比べても品質が悪く、プリント(後染め)されたものの方がよく見えるほど技術の衰退が生地に反映されていました。

大切なことは「精神的にも、経済的にも自然と調和する」ということ――

森本氏は絹織物産業を復興させることにより、第2の祖国となったカンボジアをより大規模に活性化するための基盤をつくろうとしています。「大切なのは、自然と調和した暮らしです。精神的にも経済的にも自然と調和することが、人間にとって必要ではないでしょうか」と、森本氏は言います。

その根拠として、かつてカンボジアには決して裕福ではなかったものの、自立した農村経済があったことを挙げています。「それを破壊したのは戦争です。しかし無分別で急な近代化も、同様の結果を招くことになります」。

カンボジアにおける森本氏の活動は、母国の日本のメディアにも次第に取り上げられるようになりました。森本氏は、アジアで最も貧しいカンボジアの若者と、アジアで最も裕福な国の若者の双方を鼓舞したいと願っています。「日本の若者が伝統の守り手になることの重要性を理解してくれたら、次第に人間と自然との微妙なバランスの保持に貢献するようになると思います。どんなに小さなことであっても、行動を起こすことが重要なのです」。

森本氏の元で制作された絹織物は、シエムリアップにある工房の2階で販売されています。また、米国ワシントンのスミソニアン博物館付属の「フリア&アーサーM.サックラー(Freer and Arthur M. Sackler)」ギャラリーでも展示販売されています。同ギャラリーの学芸員であるルイーズ・コート(Louise Cort)女史は「森本氏の遠大な構想に畏敬の念を抱いている」と述べています。
「リスクを恐れないこと」――これは、荒廃した地域に芸術と生活の糧を提供する実践的モデルを進める森本氏の信条です。「リスクを避けていては、やりがいある仕事は生まれてきません」