2011.04.12
アクアラインの海底トンネルを抜けると、いきなり東京湾の真上に出た。しばらく走ると左右の眼下に養殖海苔を付着させる海苔ひびが見える。千葉県側のこの辺りは遠浅の海でまだ海も汚れていないのだろう。
袖ヶ浦インターで高速道路を降りて、国道16号線に入ると、灰色の街。待ち合わせの長浦港はなんだか殺伐としている。1960年代に埋め立てられてできた京葉工業地帯の一角──ぼくの生まれ育った大阪湾岸の町も同時期に白砂青松を失い、いまは茶色の海に向かってメタルな建築群を林立させている。風景がじつによく似ている。秋晴れの高い空が広がっているが、町の色はくすみ、荒れ地に咲いたセイタカアワダチソウが秋風にさわさわ揺れている。渇いた郷愁が胸に染みた。
今まで取材で訪れた港とはまるで違う──海の色は薄汚れ、ゴミもぷかぷか浮かんでいる……。
この港から船に乗ってイイダコ釣りに出かけるのだという。いったいどの辺りで釣るのだろう? ほんとに釣れるのだろうか? さまざまな思いが、一瞬、交錯した。
進藤清一(しんどう・せいいち)さん(83歳)は長浦港で遊漁船「こなや丸」を4艘所有している。実質的な仕事は息子と孫に譲って、今は悠々自適の暮らしだが、ときおり海が恋しくなって船に乗る。今日は孫の瑞樹(みずき)君(19歳)と二人、イイダコ釣りに出るところ。
すでに清一さんは船上の椅子に腰を下ろし、哲学者のように港の景色を半眼で眺めている。その周囲に透明な静謐が漂っていて、なかなか声を掛けづらい。そうするうち、乗船前のあわただしい時間を縫って、瑞樹君が岸壁でイイダコ釣りの仕掛けを作りはじめた。
取り出したのは、錘(おもり)と針が一体化したテンヤというもの。一番下に針が2本。上に錘があり、ちょうどその間にラッキョウを結わえつけた。周りにラッキョウ漬けのあの匂いがぷんと漂った。
ラッキョウでイイダコ?
「ええ。昔からラッキョウを使ってるそうですよ。イイダコは基本的にラッキョウの白い色を目指して来るみたいです」
匂いは関係ある?
「関係ないみたいですね。ラッキョウの疑似餌でもたくさん掛かりますから」
形が関係あるのかな?
「どうなんだろ。抱きつきやすい形かもしれないけど、あんまり関係ないんじゃないかな。ふだん食べているものが小さなエビやカニや貝類なんで、白い色がカニのお腹や貝の内側と錯覚させるんじゃないですか。何か目立つものが動くのが一番興味を引きつけるんじゃないのかな」
なるほど。タコは好奇心の強い生き物だし、白い色は海の中で目立つからだろう。
朝10時。おだやかな陽の射す港を「こなや丸」は静かに岸壁を離れた。航路の左右には巨大な石油タンク、赤と白に塗られた煙突の火力発電所、灰色の化学工場などが連なっている。
しばらく走ると海が開けたが、目の前には巨大な貨物船が何艘も止まっている。小さな船から見ると、まるで高層ビルのようだ。
こなや丸は舵を大きく左に切って、一路、アクアラインの方向を目指すが、海上には船、船、船……。この海で漁船や遊漁船が航行するのはかなり危険を伴う──それが実感としてよくわかる。
港を出て40分。アクアラインの少し南側の漁場(金田海岸沖)に着いた。「海ほたる」はすぐそこ。羽田に着陸するボーイング777は白いお腹を見せて頭上を行く。
「水深は3メートル。いま干潮から満潮に変わっていく上げ潮状況です。今日は東風でこっちは山陰なんで、海も穏やかです。イイダコは居る所にはまとまって居るんです。だから掛かるときはバタバターッて掛かりますよ。でも荒れた日は散らばっちゃうんで」瑞樹君が言う。
昨日、低気圧が過ぎたけれど、今日はどうかな?
「うーん。でも、もっと早く出港した船からはぼちぼち釣れてるって連絡入ってます」
傍らで、清一さんが早速釣り竿を2本取り出し、糸を垂らした。2本の釣り竿を逆ハの字の形にして左右の手で握っている。しばらくそのままの姿勢でいたが、やがて右の釣り竿をゆっくりリズミカルに上げ下げしたかと思うと、今度は左の釣り竿を上下に動かす。
にこりともせず、眉根を寄せてその動きをやっているのが──清一さんには大変申し訳ないのだけれど──どこかこっけいだ。そう思ってしまうの は、相手がイイダコだからだろうか。あるいは、ぽっかり浮かんだ白雲と秋空の下、哲人然とした清一さんが寡黙に、真摯に単純作業をやっているからだろうか ──。
だが…10分経っても、まったくイイダコは釣れない。清一さんが繊細に竿を動かしても、まったく反応がない。さすがの哲人も、ほうと小さく溜め息をついた。様子を見ていた瑞樹君が、ポイントを変えるべくエンジンをかけて舵を切った。
この機会を狙って、ちょっと怖そうな清一さんに恐るおそるイイダコ漁のやり方について訊いてみた。
「ん?」
眉をしかめたかと思った。
が、目に焦点が合うと、意外な笑顔を見せた。ちょっとホッとする。
そして清一さんが囁くような調子の掠(かす)れ声で話しはじめた。
「…どうして竿を上下させてるかって? あれはね、テンヤを着底させて小突いているんだよ。海底からテンヤを離さず、トントンと動かす。これで誘惑するんだ。小突きはテンヤが海底から浮かない程度、錘の部分だけが海底を叩く感じ。で、イイダコがラッキョウに抱きついてくると、微妙に竿に重みが加わる。イイダコの乗りはわかりづらいから、竿はなるべく柔らかいのがいい。
イイダコはラッキョウに抱きついてるけど、そこで竿をクッと上げてやると、イイダコはラッキョウからずっこけて、針の所に引っ掛かっちゃう。だからソーッと竿を上げてくると、タコは針に刺さらず、ラッキョウに抱きついたまま上がってくるよ。面白いもんだ」
けっこう饒舌なのに再び驚いた。
この漁法はいつ頃からあるんですか?
「子ども時分からやってるね。当時は豚の脂身も使ったりしたっけ。白い瀬戸物でやったこともある」
ポイントを2回移動して再び糸を垂れ、しばらくすると小突きがあった。清一さんが竿をしならせて素早くリールを巻き上げる。と、ラッキョウから滑り落ちたような恰好で針にかかったイイダコが釣り上げられてきた。
大きさは掌よりも小さい。脚と脚の間に目のような金色の紋がある。瑞樹君によると、胴(頭のように見える部分)は大きいものでゴルフボール、小さいのは小豆程度。平均すると金柑ほどの大きさだという。イイダコの寿命は1年。産卵期になると、胴の中に300~400個の大粒の卵がぎっしり入る。イイダコという名前は卵の形が飯(いい)に似ているからとも、煮て食べるときの食感が飯に似ているからともいわれる。
バケツに入れられてもイイダコは壁面に貼りつき、にゅるりにゅるり。胴を尖らせ海へ逃げる機会を狙っている。金色の眼状紋がひときわ輝き、脚に太い縦縞模様が浮き出てきた。
2時間かけて、イイダコは8杯しか獲れなかった。
「おれが知ってる限り、こんなに暇なのはないねえ。1日だいたい80以上。200獲れちゃうときもあるからね。やっぱり最近の気温は高すぎる。異常だね。今年は魚影が薄いよ」声がいっそう掠れて小さくなった。
イイダコはどういう所にいるんですか?
「遠浅の砂地。死んだ巻き貝やバカ貝の中に棲んでる。水深2~7メートルの駈け上がりになっている斜路にいるんだ」墨をだしながらぬったりと這うイイダコを見ながら言う。
近くでボラが大きく跳ねた。鳥山も立っている。「ソウダガツオが湾内に入ってきているんです」瑞樹君が教えてくれた。
港へ帰る船の中で、清一さんは遠い目をして語ってくれた。
「昭和の40年(1965年)頃までは長浦にもイイダコが居ついていたよ。埋め立て前までは遠浅の砂浜でね。泳ぎを覚えたのももちろん長浦の浜。 子どもの頃は海に行くのがただただ楽しかったねえ。貝はアサリ、ハマグリ、赤貝、バカ貝…魚はフッコ、アイナメ、メゴチ、シロギス、アオギス…何やっても獲れたから、晩御飯のおかずには困らなかった。夏は海水浴で賑わったし。20歳の頃から埋め立て前まで海苔の養殖をしていてね。一日の仕事を終えると仲間とイイダコ釣りに行ったもんだよ。イイダコは秋の十五夜の時が一番。満月のときがいいんだ。明るくて海の中もよく見えるからね。その頃はこの辺り(金田沖)に来なくてもうちの先で獲れたから。今はアクアラインの南北の辺りだね。
海苔は埋め立てと同時にやめて、それからは遊漁船一本。昭和41年(1966年)かな。長浦港やコンビナートが出来ていった。同級生はみんな漁師をやってたけど、漁業権を売って、陸に上がって勤め人になったんだ。今も海と関係してるのは、うちだけじゃないかな。なんか寂しいですよね。一軒くらい、おれたちみたいな馬鹿がいなくちゃなんない(笑)。
海苔の頃はお金になってね。お札刷ってるようなもんだった。いい時代だった。水もきれいだったしね。長浦の辺りはみんな海苔の仕事。漁師たちは補償金で土地や何かを買った。補償金もらっちゃったから、馬鹿がたくさん出てね。おれなんかも一週間に4日くらい木更津に通っちゃった(笑)。木更津に芸者屋さんがあってね。みんな馬鹿になっちゃって。補償金ぜんぶ使った人もいるよ。良いのか悪いのか……でも、やっぱり自然をいじっちゃダメだよ。海があったから、おれもこうして生き延びられたんだと思いますよ」