#11

文・写真:佐藤秀明

2012.08.17

米作りの出来ない砂地が良質な綿を育む

鳥取県の米子から境港まで弓のように緩やかな湾曲を描きながら続く弓ケ浜。日本海から思い浮かべる荒々しい海岸線とはほど遠い美しい白い砂浜が10数キロ続く。この美保湾と中海に挟まれた巾約3キロメートルの狭い砂だけの土地が絣の名品、弓浜絣の故郷である。

弓ケ浜は風景こそ素晴らしいがそこに住み農業を営む人々にとって必ずしも住み良い所ではなかった。砂地であるために米作りが出来なかったのだ。だから砂地に適した綿が盛んに栽培されたのである。結果として綿栽培が木綿織物である弓浜絣を育むことになるが、その主原料である伯州綿(はくしゅうめん)は独特の感触があって質も良かった。娘の嫁入り用にと布団の綿を打ち直すために大阪の布団やに頼んだところ、綿の質の良さに布団屋が驚いたという話がある。そんな良い綿を使って家族の健康や幸せを願い、より美しい絵柄の絣を農家の婦人たちは競うように織ったということだ。暮らしに密着した素朴な縁起物の模様が弓浜絣の特徴だ。

弓浜絣の復活に尽くした嶋田夫妻の半世紀

第二次世界大戦後、豊かになった衣料事情などで絣はほとんど忘れ去られるが、そんな危機的状況のなかで風前の灯火だった弓浜絣の復活に尽力している女性が居る。県の無形文化財保持者の嶋田悦子(しまだ・えつこ)さん(80歳)だ。

境港市出身の悦子さんは1953年に嶋田太平さん(故人)と結婚して上京。当初、悦子さんは洋裁や編み物をやっていたというから民芸運動とつながりを持つ太平さんの影響が大きかったのだろう。彼女は次第に布を作る魅力に引かれて行き、56年、民芸運動家の柳宗悦の甥で染織家の柳悦孝、悦博兄弟に師事した。そんな時、太平さんが悦子さんに一枚の布を見せた。それが弓浜絣だった。太平さんの思いは弓浜絣の復興だったのである。

最初、弓浜絣の復興に尽力されたのは呉服店をやっていた悦子さんのお母さんだ。土地のおばあさんの間を走り回って、昔の古い糸を持っている人を見つけてきた。その糸を使ってお母さんはやっとの思いで一反織り上げたというから運命的としかいいようのない話だ。69年に悦子さんは夫の太平さんと帰郷してから共にひたすら弓浜絣の普及につとめ、現在は工房を長女夫妻にまかせ、創作活動や後進の育成に当たっている。

「工房ゆみはま」におじゃますると「絣を通して多くの人と出会えることは幸せです」と悦子さんはおっしゃって快く迎えてくださった。すでに半世紀も弓浜絣と向き合ってこられてなお「まだ入り口です」と謙虚である。絣の奥の深さを感じさせるのである。

地域ぐるみで育てる弓浜絣の後継者

現在悦子さんが強くこだわっているのがやはり綿である。今までさまざまな綿を試して来たがここ弓ケ浜の砂地と潮風に鍛えられた綿が一番だそうだ。「この土地で作った綿よりいい物にであった事がない」という悦子さん。だからこそそれなりの物が作れるのだという。古い絣の味わいを追求している悦子さんは自身の畑で綿の栽培もおこなっている。

現在、弓浜絣は経済産業大臣指定の伝統工芸品だが、全行程を身につけている人はほんの数人ほど……。しかも高齢化が進んで、次世代への技術伝承は急務だ。

麦垣町にある「弓浜がすり伝承館」では後継者を育成する研修を行なっている。現在48人もの応募者の中から選ばれた3人が主任講師を務める悦子さんをはじめとする講師陣から、糸紡ぎ、染め、機織りなどの全行程を学んでいる。染めの原料である藍は質の良い徳島の藍を取り寄せて使用している。染めにも支えられているという思いがあるからだ。また、近隣の住民が持ち寄った、使い古された織り機などが展示されていて博物館の機能も兼ね備えている。

弓浜がすり伝承館
鳥取県境港市麦垣町86 TEL&FAX.0859-45-0926
開館時間:8:30~17:00(土日祝日、年始年末を除く)

工房ゆみはま
鳥取県境港市竹内町899 TEL.0859-45-7610 ※訪問時は要連絡
営業時間:10:00~17:00(日祝日、年始年末を除く)

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