#16

文・写真:佐藤秀明

2014.07.08

地域住民の絆を育む風習

答志島(とうしじま)は三重県鳥羽市の沖約2.5Kmに位置する、周囲26.3kmの鳥羽市最大の島である。島の80%が自然林で占められているということなのだが、万葉集に詠まれたり、平城京跡から発見された木簡に答志島の地名が描かれていたこともあって、歴史的にみてもかなり古くから人の営みがあった事がわかる。

また答志島は今も「寝屋子制度(ねやこせいど)」が残る唯一の場所なのだ。江戸時代には、名前は違えど、農村や漁村でごく普通にあった制度だ。若衆組とも呼ばれ、数えで15才になると加入し、結婚とともに退会するという制度なのだが、時代とともに答志島の答志町を残して消滅してしまった。数年前までは同じ島の和具町でも行われていたそうだ。今も続いている寝屋子制度とは、中学を卒業した男子を地域の世話役の大人が何かと面倒をみるという風習である。面倒をみる家を寝屋、世話役であるその家の主人を寝屋親、世話をやかれる男子を寝屋子と呼ぶ。昔は寝屋子になると毎日寝屋で寝起きをしたものだが、今では週末や月にせいぜい一度か二度くらいだという。それでも寝起きを共にすることで生涯にわたって実の兄弟以上の絆が生まれ、助け合って生きて行くのだそうだ。

そういった制度が今も残る島なのでなんとなく畏れ多い思いを抱きながら訪れてみると、私たちを歓迎するかのごとく答志の港の空に鯉幟(こいのぼり)が盛大に泳いでいた。

実の親ではない「寝屋親」が上座に座る初幟の宴

答志島の中心部は民家が密集しているため、答志港前の広い浜通りに沿って、初節句の鯉幟(こいのぼり)があがっている。答志島の節句は旧暦で行われるため、5月末に一斉に鯉幟があがる。その家に長男が生まれてから一歳になるまでの家でしかあげられないそうだ。

漁師である山下弥元(ひろもと)さんの長男、山下弥大(ひろと)君の初幟の宴席を覗かせていただいた。会場へ着くとすでに80人ほどのゲストがズラリと並ぶ。幼い弥大君のためになんという賑やかな宴なのだろうか。この島の人と人との濃密な関係や、この島独特の作法のようなものを感じることができた。ゲストには弥元さんの寝屋子仲間(朋輩)や親戚たちが並ぶ。主賓席の上座には弥元さんの両親ではなく寝屋親が座り、実父は下座に座る。寝屋子制度の一端を垣間みる事ができた。

路地裏巡りも楽しい漁師町

答志島は歩くほど、その奥深さを知ることができる。歩くのが楽しい島である。一番のおすすめは路地裏巡りだろう。一度迷い込んだら出口を見失いそうだ。

路地を抜け小高い丘に登れば広い海が一望だ。すばらしい風景と懐かしい路地のバランスがいい具合だ。眺めの良い丘の上で風に吹かれながら鳶の鳴き声を聴いているときの幸せをどう表現したらいいのだろうか。眼下にはたった今しがた歩いて来た路地が瓦屋根の下に見え隠れしている。下から吹き上がる風が干物の匂いを運んできた。ふいに「また来てもいい」という言葉が口からもれた。

島には答志、和具(わぐ)、桃取(ももとり)と3つの集落があり、人口の8割が漁業に従事しているというほど漁業の盛んな島だ。島を訪れた5月下旬はいたる所でシラスの天日干しが行なわれていた。島の周囲は潮流が速く、伊勢湾の栄養豊かな潮を追って外洋からさまざまな魚がやって来る。潮の引いた磯を歩いてみると多くの磯ものが岩に張り付いていた。牡蠣、カメノテ、イシダタミガイ、マツバガイなどいずれも美味しい磯の幸だ。

「この島は絆の島なんです」

島を歩くと漁師達に出会う。網を整理する人、たこ壷を洗う人、採ったウニを洗う海女、天日干しをする女性…。競り市場へ出向くと、子どもを背負いながら必死に釣れた魚を運ぶ女性や生け簀に運ぶ車などが目の前を横切る。漁師達が釣った魚をいかに新鮮なうちに捌くかが、市場で働く人全員の使命だ。そんな連携作業は息もぴったりだ。

「この島は絆の島なんです。男は寝屋子制、女は海女小屋で大人たちにいろいろ大切なことを教えてもらえるんです。だからお葬式、祭、結婚式のときはみんなで助け合うんです」と話すのは、この島を案内してくださった、島の旅社の濱口ちづるさん。狭い路地裏を歩くと、誰もが挨拶を交わす。晴れた日ならば「ええ天気やのう」、雨の日ならば「はざんのう」。玄関の鍵は閉めたことがないともちづるさんは言う。「だって、空けておかないと冷蔵庫にみんなが釣った魚を入れられないでしょ?(笑)」日本の懐かしい暮らしに出会える島なのである。

協力:島の旅社
http://www.shima-tabi.net

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