鮭文化とともにある、村上の暮らし

#18

文・写真:佐藤秀明

2014.12.24

鮭は遡上する……その生態は、村上藩の下級武士が発見した

朝日連峰に雪が降り、日本海が冷たい北風にざわめき始めると、足早に通り過ぎて行く厚い雲間から光芒がよく見られる。これを見ると“越後の冬がやって来た”と思う。十月も半ばを過ぎると、山形との県境に近い村上の三面川(みおもてがわ)に鮭が帰って来る。日本各地の貝塚から鮭の骨が出土していることから、鮭を捕らえ、暮らしの糧としてきた人間と鮭の歴史はかなり古いことが伺える。そう、鮭は大昔から私たち日本人に食されてきたのだ。

平安時代に鮭料理は既に朝廷に貢物として納められていたそうだ。特に信濃、越後、越中からは大量の鮭が貢納されていたというから組織的な漁が行なわれていたのであろう。村上藩の主な財源にもなっていたが、漁法の進歩によって産卵前に捕獲されてしまい、江戸時代後期になると、漁獲量が激減してしまった。しかし、川で生まれて海に下り、海で数年を過ごして成長し、また同じ川に戻る、母川回帰という鮭の生態を、藩の下級武士、青砥武平次(あおと・ぶへいじ)が長年の観察により発見した。これは世界初の発見であったが、その鮭の生態を利用して産卵の手助けをし、鮭の数を増やそうと考えた。

村上藩が開発した、種川制度という名の繁殖システム

その方法とは、三面川に産卵に適した分流「種川」を作り、鮭の回帰を促すというものだった。この種川制度という、ふ化システムもまた世界初のことだった。以後、鮭は次第にその数を増やし、小藩村上藩は大いに潤った。村上では海と川と両方で鮭漁が行われたが、川の漁は主にふ化をさせるための捕獲であり、海の漁は食すための漁である。川で行われる漁は主に、テンカラ漁、コド漁、3艘の舟で追い込む居繰網漁などがある。これらは江戸時代から続く伝統漁法だ。他にも近年取り入れられた、一括採捕などがある。

幕末に入り、戊辰戦争が起こると村上藩は新政府軍と戦ったが、城下町もろとも焼かれることを危惧して自ら城に火を放って恭順の意を示し、町と種川を無傷で残した。戦火に遭いながらも、以前と変わらずに遡上してきた種川の鮭は、村上の人々の戦後を生き抜く大きな力になったことだろう。

その後設立された「村上鮭産育所」は鮭繁殖策に大成功をおさめ、その収益金を奨学基金として教育に役立てた。“成功して戻ってきてほしい”という願いをこめて、その奨学金で進学した人達を「鮭の子」と呼んだ。「鮭の子」は激動の明治、大正、昭和の日本に大いに貢献したのだった。

米が不作の冷夏の年は鮭が豊漁になる

産卵に適した分流の種川を作っても、鮭の遡上は自然の法則に従ってのことである。大量の遡上を見ることもあれば、さっぱりだという年もある。歴史の中でわかっていることは、米が採れない冷夏の年は鮭が豊漁だということ。それは、冷夏で海水温が上がらないと、冷たい水を好む鮭は早い時期から遡上を始めるためだ。だから、冷夏の影響で米が足りなくて困り果てていると、鮭が豊漁となり村上の人たちを救ってきたのだ。

また、秋から冬にかけて食料が不足する時、空腹をしのぐために食されてきたのが鮭であった。だから、“1尾の鮭といえどもおろそかにしてはいけない”という思いは、村上の人々の心の中で必然的に培われてきた。とにかく村上で出会う人たちは、鮭の話を始めると止まらなくなるくらい誰もが鮭について熱い思いを抱いている。

鮭とともに継承される村上の食文化

そんな村上には、なんと百種類以上もの鮭料理があるそうだ。その日獲れた新鮮な鮭だからこそできる白子や湯引きのお刺身。川煮から、加工料理まで多種多様だ。頬肉、内臓、骨など、頭から尾まで余すところなく美味しくいただける。鮭漁が解禁される10月末から12月の間に村上市を訪れると、街中の割烹屋や居酒屋、また日本海沿いに位置する瀬波温泉街の旅館などでは、鮭料理を楽しむことができる。

塩引鮭、鮭の酒びたしなどの伝統加工、発酵食品を今も昔ながらの製法でつくる「味匠 喜っ川」のご主人、吉川哲鮏(きっかわ・てっしょう)さんが、村上の食文化やいただくことの心構えなどをお話してくださった。1尾の鮭を慈しむことや“いただきます”という言葉に込められた日本人の食への思いといったお話は、忘れていたことを思い起こさせるものだった。村上では、鮭を通して、日本の食文化が今も親から子へと継承されていることを感じた。それにしても鮭料理の種類の多さには驚かされた。

むらかみ観光情報サイ
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イヨボヤ会館
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味匠 喜っ川
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料亭 能登新
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