2015.12.02
美濃和紙は岐阜県で昔から生産されてきた。長良川や板取川の豊かな水は流域の里山を潤し、その清流が育んだ和紙の原料になる楮(コウゾ)という本来山野に自生するクワ科の落葉低木が多く穫れたことから、人々の知恵と工夫によって美濃和紙が生まれた。
和紙の原料には楮の他に三椏(みつまた)、雁皮(がんぴ)、木材パルプなどもあるが、楮は光沢があり、他の原料に比べて繊維が長く丈夫であったために重要な公文書や教典などに用いられ、長く和紙の代表的な存在だった。
障子にはやはり美濃和紙である。「喩えるなら、凍って固まった地面に新雪がふわふわと降り積もった様な状態。一面にべたっと白いのではなく、美しくむらがあることを地合がいい、といいます」と『美濃和紙竹紙工房』の鈴木竹久さん。
紙作りが日本に伝来したのは610年ごろと言われているが、そのころ日本には楮の繊維を利用する技術があったというから、和紙が生まれる要素はすでに芽生えていたのだろう。
楮を使った紙は奈良時代に登場する。日本最古の紙と言われる美濃・筑前・豊前の戸籍用紙は、楮から作られていた。それから千年以上にわたって、和紙製法の技術が脈々と現代まで受け継がれてきたわけだが、美濃和紙は、その需要が庶民にまで及んだ江戸時代には障子紙で名を馳せた。やはり畳で名を揚げた近江とともに川柳で「美濃を替え、近江を替える忙しさ」と忙しい師走の情景が唄われている。また、関ヶ原の戦いで徳川家康が振った采配も美濃和紙でつくられたことから、縁起がよいとされ、徳川家でも代々使われていた。
しかし、明治から大正にかけて5000戸近くあった伝統的な和紙を生産する家が、高度成長とともに減少。そんな状況を危惧した地元の有志が、本美濃紙の伝統技術を絶やすまいと、結成したのが本美濃紙在来書院保存会で、昭和44年に本美濃市保存会と改名し現在に至っている。
蕨生地区で本美濃和紙を生産している鈴木豊美さん、竹久さんの工房『美濃和紙竹紙工房』。まずは、楮の皮を水に晒す。昔は川の水で晒したものだが、「最近は水槽で晒すようになったんですよ」と竹久さんは小声で言った。水槽の水は山の水。
現在、洋紙や機械で漉く和紙、手漉き和紙を含んだ、美濃市の和紙産業の中で、伝統の技を受け継いで本美濃紙を漉くことのできるのは一握りの本美濃紙保存会の会員のみである。
本美濃紙であると指定をされるためには、いくつかの要件を満たしてなければならないのだが、最も重要なのは原料が楮のみであることだ。そして伝統的な製法と製紙用具によって作られていること、伝統的な本美濃紙の色沢、地合等の特質を保持することが義務づけられている。
和紙がユネスコ世界遺産に認定されたというと、私たちは和紙そのものが世界遺産に認定されたとつい思ってしまうのだが、楮から紙の完成に至るまでの伝統に裏付けされた技術があったことを忘れてはならない。そして、その伝統の技術を支えて来た、刷毛等の道具を作る職人達の技も含まれての世界遺産だ。
ちなみに本美濃和紙とともに「石州半紙」(島根県浜田市)「細川紙」(埼玉県東秩父村)も共に日本の手漉和紙技術としてユネスコの無形文化遺産として登録されている。
世界遺産に認定された影響もあって、WASHIの知名度は世界に広がり、美濃を訪れる外国人も増えた。昔のたたずまいを残してた風景も、「うだつ(卯建)のあがる町並み」として観光に一役買っている。また、その町並みに美濃和紙でつくられたあかりのオブジェを展示して美を競うイベントも今年で20年目を迎えた。一時衰退した和紙産業も再び息を吹き返したようにみえる。しかし、今、本美濃紙を支えて来た職人の減少という現実があることも忘れてはならない。
美濃和紙の里会館
岐阜県美濃市蕨生1851-3
http://www.city.mino.gifu.jp/minogami/
旧今井家住宅・美濃資料館
岐阜県美濃市泉町1883
TEL.0575-33-0021
美濃和紙あかりアート館
岐阜県美濃市本住町1901-3
TEL.0575-33-3772