「春の海」が生まれた琴の里

#23

文・写真:佐藤秀明

2016.02.15

箏曲「春の海」が生まれた町は、琴の生産も日本一

琴と言えば、箏曲家、宮城道雄の「春の海」という名曲のメロディーがごく自然に頭の中で流れる。私たちはその少しクラシック調の快いメロディーから日本の美しい自然や心を感じとり、安堵する。日本人の心の奥にまで浸透している「春の海」は、広島県福山市の鞆の浦から眺めた海をイメージして作られたそうだ。鞆の浦は、宮城道雄の父の故郷で、幼い頃よく訪れていたところだという。

福山市は琴の歴史に彩られた城下町で、その始まりは元和5年(1619)、徳川家康のいとこである水野勝成が城を築いた頃だといわれている。天下太平の世の中にあって、続く藩主たちも琴や歌謡といった芸事を盛んに奨励した。明治の初めになると、京都で生田流箏曲の名手と呼ばれた葛原勾当(くずはらこうとう)が故郷福山(備後)に戻って活躍したことで、福山を中心に琴の生産が行われるようになった。現在、全国の琴の生産量の70%を占める福山琴は、楽器として初めての伝統的工芸品に指定されている。伝統工芸品というのは100年以上の歴史がなければ指定が降りないそうだ。

そんな予備知識を持って福山駅に降り立ったのだが、意外にも琴の存在が感じられない。しかし、駅裏にそびえる福山城の天守閣と城を囲む立派な石垣はさすが歴史の街であることを物語っていた。

原木の断裁から完成までに約2年

福山で琴の製造をしている藤井琴製作所を取材させていただいた。畑に囲まれた製作所の中には完成前の琴や、材料である木が所狭しと並べられていた。代表の藤井善章さんは経済産業大臣指定伝統工芸士の肩書きを持つ。仕事の合間に話を伺ったのだが、やはり需要が減ったことと人材の確保が大変なのだそうだ。

桐の原木から琴の完成までに2年近くかかるということには驚いた。丸太を琴の寸法に合わせてカットし、さらに琴専用の製材機で甲型にする。それからじっくり天然乾燥させるのだが、ヨレを出し切り、灰汁が出て黒くなるまで最低でも一梅雨を越さなくてはならない。桐は会津産を使っている。会津のように寒いところで、雪にさらされながら少しずつゆっくりと育った桐は、年輪の幅が小さく締まっている分、鳴りがいいのだそうだ。作業所の屋根には乾燥中の木が日の光を浴びて輝いていた。

木目が複雑であればあるほど高級な琴になる

木を乾燥させた後、甲を削り、裏板をつけ、彫りなど職人技で作業は進み、最後は1000度くらいに熱した鉄のコテで木の表面を焼いていく。焼くと木目が美しく浮かび上がって高級な琴に仕上がる。この木目が複雑であればある程高級な琴になるのである。

その後装飾作業へと移って行くわけだが、ベテランの職人さんの手さばきに思わず見入ってしまう。製作行程の中で最も難しいのがこの装飾で、ミリ単位の細かな作業を必要とする。

最後に「部品はどのくらいあるんですか?」と尋ねると、藤井さんは「百以上はあるよ」とあっさりと答えてくれた。

琴の音を絶やさぬ努力

琴作りの複雑な作業は熟練した琴職人が、丹念に気の遠くなるような時間をかけて行うが、職人の確保がままならない。2年前、藤井琴製作所に琴職人を目指す若者が加わった。田中秀和さん(20歳)だ。真面目な仕事ぶりに社長の藤井さんが目を細める。箏曲教室にも通っているというので、田中さんに演奏してもらった。まだ習い初めということだったが、身の丈もある楽器の突き抜けるような音色がこの若者にエールを送っているようだった。

最後に無理を承知で田中さんの先生である、生田流箏曲宮城会師範の森岡道人さんに「春の海」を聴かせて欲しいとお願いすると快く引き受けてくださった。さすがに師範のつま弾く音色はすばらしい。静かに流れ出るような音感にしみじみと琴の奥深さを感じた。

福山邦楽器製造業協同組合では小・中学生の情操教育と琴演奏技術の向上を図るため、北海道から九州まで110校に550面の琴を無料で貸し出すとともに、毎年コンクールを開催しているという。琴の音が未来にも響き渡ることを願ってやまない。

福山琴製作所
http://www.fujii-koto.com

福山市鞆の浦歴史民俗資料館
http://www.tomo-rekimin.org

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