2016.11.15
沖縄の祭りといえばなんといっても豊年祭だろう。豊年祭は五穀豊穣を神に感謝する祈願祭だ。沖縄にはそれぞれの地域ごとに神様を崇める土着の信仰が存在し、豊年祭を密やかに執り行うところもあるため、私のような外部の人間にとってはなにか謎めいた感じがして、とても興味をそそられる。青い海と珊瑚礁だけではなく、沖縄を訪れるのなら一度は豊年祭を覗いてみるのもいいものだ。
今回訪れたのは、毎年行われる、今帰仁村(なきじんそん)湧川(わくがわ)地区の豊年祭である。豊年祭は湧川のように毎年行なわれているとは限らないので、訪れる前にその地域のスケジュールを確認することが必要だ。
今帰仁といえば世界遺産の城跡「今帰仁グスク」が有名だ。石を積み上げた城壁の艶かしい曲線は青く澄み渡った南国の空に良く似合う。
湧川の集落はこのグスクからほど近い村の南端に位置し、深く切れ込んだ羽地内海に面した里山にある。山へ分け入れば、多彩な生命が共存する深い森が広がり、まるで神が宿っているかのような神秘的な風景に出会うことができる。この北部の山原の緑に覆われた起伏の多い一帯は、戦火の影響が少なく、自然のあるべき姿が残っていて、人と自然のバランスが程よく保たれている。そんな豊かな自然に抱かれた湧川はパイナップルやサトウキビをはじめとする農業のさかんな静かな集落だ。
湧川が「ムラ」として行政上創設されたのは1738年という。しかし、人々はもっと古くからこの地に生きる場としてのこだわりを強く持ち維持してきたに違いない。そんな誇りが毎年地区の人々が総出となって盛大に行なわれる豊年祭の中に込められているように感じた。
一年という歳月が祭りの準備のためにあるのでは?と錯覚してしまうほど豊年祭への取組みに皆熱心だ。戦前は女性が参加することはなかったが、戦時中は兵士として村から出払ってしまった男性の代わりに、村に残った女性たちが祭りを守ったという。それ以来、女性も参加するようになったそうだ。戦時中に一度だけ行われない年があったものの、この地区の豊年祭は大正時代から毎年継承されている。
「親類の家族全員が舞台で踊っているから毎年来るよ」と、祭りを隣で観ていた男性がビールで赤くなった顔をくしゃくしゃにほころばせながら話しかけてきた。この男性のように、年に一度、親類が集まる豊年祭のために湧川に帰ってくる人も多い。豊年祭は、親戚一同の同窓会みたいなものなのかもしれない。
豊年祭では、棒術、路次楽、七福神といった伝統武芸能と、地区の住民たちによる多彩な地元芸能が行なわれる。演舞は伝承されてきたものと新たに加わったものが混在していて、演舞を通してこの村の人たちが歩んできた歴史を知ることができる。江戸時代の参勤交代で薩摩へ向かう想いが綴られた「上り口説」と、故郷に帰る想いが綴られた「下り口説」。琉球時代の衣装で舞う「四つ竹」「鶴亀」。「今年はもっと盛り上げたい!」と、住民たちがそれぞれに演舞を披露する。今年は新たにフラメンコやベリーダンスなどが加わり華を添えた。
娯楽がなかった大正から昭和初期の時代、この祭りが村の唯一のエンターテイメントだったと言う人もいた。子どもから老人まで、演者も観客も一体になって夜が更けるのも忘れてしまうほどの賑わいだった。
湧川の豊年祭では、県指定の無形民俗文化財の路次楽(ろじがく)が演じられる。これを観るために県外からも多くの人が訪れる。路次楽は地元では「ピーラルラー」と呼ばれ、元々は中国から伝わったもので、王様の道行きの“さきぶれ”として演奏されていた、いわば吹奏楽である。遡ること1522年、明国時代に慶賀使として中国に渡った沢岻盛里(たくし・せいり)という人がたいそう気に入って当時の琉球王国に伝えたといわれる。琉球王の道中や饗宴には必ず吹奏され、江戸時代にあっては琉球王が将軍家を訪れたときの行列のさきぶれとして欠かせないものだった。
路次楽は首里王府、西原棚原、湧川で伝承されたが、廃藩置県後に急激に衰えてしまった。しかし、湧川では、戦時中も壕の中でそのチャルメラのような楽器を大切に保管していたため、絶えることがなかった。他の地域では戦後に復活したそうだ。この楽器は藁の芯を入れて吹く、中国から伝えられたままの形で今も演奏されている。祭りを盛り上げるその音色は、いまや湧川の豊年祭になくてはならない存在だ。
豊年祭に使われる道具、唄われる歌詞、衣装、その一つひとつに物語がある。だからこそ、豊年祭はこの村の人々の誇りなのである。