2010.08.18
私たちの身の回りに残されている、自然とともに豊かに暮らす生活の知恵。
前回の宇陀に続き、今回は、さまざまな文化と人が出会う場所・長崎を訪ね、江戸時代に長崎にやってきたドイツ人医師・シーボルトがもたらしたもの、そして、彼が見た日本の自然文化をたどる旅にでかけてきました。
最初に訪れたのは、長崎大学の薬学部にある薬草園。ここには「シーボルト記念植物園」があります。
八代将軍徳川吉宗は、安保5年(1720年)、キリスト教関連書以外の書物の輸入を解禁しました。それ以来、西洋医学に対する日本の関心はどんどん高まっていきます。そこで、オランダは医術の伝授という名目のもと、日蘭貿易のさらなる発展と可能性を探るために、博物学的民族調査もできるシーボルトを、長崎・出島のオランダ商館の医師として派遣しました。シーボルト自身も学生時代からアジアへ行き、動植物や民俗学の研究をしたいという思いがあったようです。日本に医学的な知識や技術を持ち込んだいっぽう、日本から外国にはない、たくさんの植物を持ち出していたんです。1829年に帰国する際には 500種800株の植物を船に積み込みましたが、オランダに着いた時には半分がダメになってしまったそうです。
薬草園が日本で初めて作られたのは飛鳥時代だと言われています。天武天皇の時代に薬師寺に付随して作られ、「薬部」と呼ばれる人たちがいました。そしてもっとも発達したのが江戸時代。ヨーロッパやアジア、アメリカなどから出島へ薬草木が流入され、医師や科学者によってもたらされた西洋の医学、薬学、植物学の流入が日本の本草学と薬園の発展に大きな影響を与えました。
日本の三大薬園跡の一つである旧島原藩薬草園跡では現在「島原健康半島構想」という名のもとに行政ぐるみで薬草の効能を現代の知恵として、もう一度見直そう、という取り組みがなされています。
「島原半島はそもそも薬草との歴史がある地。その歴史と先人たちの知恵をちゃんと伝えて行こうと、石碑しかなかったこの薬草園を長崎大学の監修のもと歴史書を調べたりしながら整備したんです」
とお話くださったのは、島原城資料館の専門員の松尾卓次さん。雲仙岳の麓にある約1ヘクタールの敷地には長崎県内の山野にあるものや県外のものなど、それぞれの薬草、ハーブ類、そして漢方用の薬草などが植えられています。かつては多くの村医者がここに勉強に来て、その知識を持ち帰り民衆に広めたそうです。特に西洋からもたらされた天然痘の予防法はいち早く伝わり、この地域には、あばた顔の娘さんが少なく、島原には美人が多かったと言われています。
身近な薬草をつかったお料理をいただきました。
(上から時計まわり)女子力UPシリーズの、
タンポポカツ、アマドコロとレンコンと
銀杏のごまあえきんぴら、
ヤブカンゾウとツルムラサキのチキンスープ、
山ウドの若葉飯、
ベニバナボロギクのおひたしウツボグサのせ。
「NPO法人島原薬草会」事務局でもある大場敏江さんと会員のお母さんたちが薬草を使った料理を教えて下さいました。
「薬草は手早く洗って使うのがコツ。長く水に浸けると薬効が流れ出てしまいますよ」
「薬草は毎日食べていいんですよ。毎日食べても良い薬草や薬草料理を市民に広めていこうと思っています」
「タンポポは女性ホルモンの作用が強いので、ホルモンバランスを自然に整えてくれます。食べているとお肌つるつるになるのよ。持って帰る?」
女性が数人台所に集まると、ワイワイガヤガヤ賑やかになります。お母さんたちは薬草を食べて110歳まで生きるの! と大きな笑顔で話してくれました。まさに、生きる=食=女性パワーです。大場さんは薬草の勉強を始めてから、自らの身体がみるみるよくなって行くのを実感しているといいます。今では薬草園だけではなく、ご自宅のお庭にも50種類の薬草を育てているそうです。家族の健康はお母さんの手中にあり、ひいては日本の健康、日本のパワーに繋がって行くのだと実感しました。
日本にはまだまだ植物と暮らす知恵がたくさんあるそうです。そして、薬草の豊富さや知識の高さ、資源、文化、民族など、自然の素晴らしさを一番知っていたのはじつは外部の視点で当時の日本人の生活文化を見ていたシーボルトだったのではないかとこの旅を通して思ったのでした。