#02

取材:元ちとせ/写真:中乃波木

2011.08.01

島唯一の三味線職人であり、奄美シマ唄界の人気者

5月、大和村大金久にある三味線職人・浜川昇さんの自宅兼工房を訪ねました。今、材木から三味線を作ることができるのは、奄美で浜川さん一人だけです。しかし、奄美の人たちにとって、浜川さんの存在は、三味線職人としてよりも、「唄者」としての印象が強く浮かんできます。

実兄・信良さんが亡くなる5年前まで「浜川ブラザーズ」として活動してきた浜川さんは、多くの民謡大会に出演しては、「聴く人たちを楽しませたい」と面白おかしくシマ唄の歌詞を唄い変え、集まった人たちを笑わせてきた島の人気者なのです。
「ハブよりも嫁が怖い、とか、即興で歌詞を変えて唄っていましたよね」

そう言うと、浜川さんは大きな笑顔でこう返します。
「うちは元さんみたいに上手くは唄えないでしょ。人を喜ばす唄しか歌えないもんですから、冗談ばかりの唄ばかりだったんですよ」
「私はその唄を聴いて育ちましたからね。初めて浜川さんの唄を聴いたのは、まだ自分がシマ唄をはじめた頃でしたし、こんなに面白く唄っていいんだって驚いたんです」
「替え歌がどんどんできるんですよ。自分で考えたことを唄えばいいんだから、どんどん唄えばいい。奄美の唄は、誰が唄っても、あんたが唄えばあんたの唄。ダメっていうことは何もないですから」と浜川さん。
「でもシマ唄はもともとはそうですよね。うちの宴の中で、唄遊びでどんどん変えて唄っていく」

その言葉に浜川さんがうなずきました。

自分で作った三味線でシマ唄を唄いたい

浜川さんは、昭和8年、大和村大金久生まれ。家には古い三味線があり、浜川さんは父親が仕事に行っている間に三味線を弾いては唄っていたそうです。
「子どもの頃から唄うことが好きで、学校の学芸会でも唄っていました。でもその頃は戦後の貧しい時代。唄は娯楽人の遊びで、仕事をしないで家を捨てて、これ(シマ唄)ばっかりするから家庭が持てないと言われていたんです。だから村ではあんまり唄えなかった。自給自足の生活でしたから、畑仕事をして芋作って食べる。昼間は一生懸命ですよ。だから夜になるとさっさと畑から帰ってきて、川で水浴びて、三味線を持ち出してここの部落の道を三味線弾きながら歩きよったですよ。それが一番の楽しみだったもんね」

浜川さんは当時のことをそう述懐します。
「その時代は自分で作らんと楽器がなかった。南洋からヤシの実が流れてくるでしょ。その実を3分の1くらいに切って、それを三味線の太鼓にして木に紙を貼って、三味線を作っていましたよ。ヤシの実が一番よかったんです。終戦後だから何の楽しみもなくて、自分で作らないと三味線は弾けなかったから」

浜川さんが本格的に三味線作りをはじめたのは16、7歳の頃。家にあった三味線を見本に、ノミと金槌で古い材木を削り、作りはじめたのが最初でした。
「独学で作りはじめたんです。自分が作った三味線でシマ唄を唄いたいというのが一番の想いでしたね。自分が作った楽器が、どんな音が出るのか、どんな形にできるのかを知りたかった。だけど最初の3、4年は作っては壊し作っては壊しの連続で、とても人に売れるような作品ではなかったですよ。でもぼちぼち人が買うようになりはじめて、そこから自分の本職にしたんです」

何百本も作れば、「木」から「音」がわかる

三味線作りはまず、棹に使う木を選ぶところからはじまります。今、使っている木は、黒檀、ユス、そして紅下の三種類です。
「百年くらいの古い家を壊す時に、その木材を譲ってもらってくるわけよ。古い家の木材は、釘が入っているからよっぽどじゃないと製材所がもらってくれないからそれを取りに行くんです。なるべく古い木がいいんですよ。若い木は捻りますから、早くて6、7年は寝かさないと絶対作れない。今ここにあるのは20年くらいのものを使っています」

浜川さんは黒檀とユスで作った三味線を見せてくれました。
「黒檀はいいんだけど、うちは島のユスの木を気に入ってますね。黒檀の木は堅い分、音まで堅いんですよ。ユスの木は柔らかい。粘り気があるんです」

ユスの三味線を鳴らしてみると、とても柔らかい音がしました。
「あ、いい音がしますね。私の三味線は黒檀なんです。他の木のものがあることを知らなかったから」
「黒檀は名が知れているもんですから、みんな高級品として見てるんですよ。ユスは名前負けしてますけど音はいいんです。何百本も作っていれば、どの木がどんな音がするかわかります」

三味線の棹は、金型を木材に書き写し、その形に帯のこぎりで切り分けます。そこからはすべてヤスリのみで仕上げます。ノミや鋸は使うと木が割れてしまうからだそうで、「だから時間がかかるんです」と浜川さん。

一本作るには、約一週間かかります。手に馴染む美しい棹の丸みは、職人が時間をかけて作り出した努力と技術の賜物だということがわかります。

さらに三味線の丸いボディは、四本の木を枡形に組み合わせて作ります。
「一本の木は、強いところと弱いところがあるの。だから一本の木から丸く切っても、年数が経てば菱形になったり卵形になったりして崩れていく。だけど四本の木を組み合わせると全然崩れない。しかも横目の板を使っているから、古くなっても狂わないですね」

このようにしっかりと職人の手で作られた三味線は何十年と保ちます。皮を張り替え、糸を張り替え、大切に一本を使い続けることができるのです。

浜川さんはこう言います。
「買っていった人に、あんたの三味線良かったよって言われるのが一番嬉しいがね。その言葉に惹かれて、もっともっといいのを作ろうという気持ちで、そうやってずっと作っていますよ。今は沖縄からベトナムでは安く作らせた三味線が流通していて、買う方も安いからみんな最初それを買うんです。でも、三味線を続けて二年か三年したら、替えに来ますよ。音が悪いから替えてくれって。弾く人が、いい音の三味線を弾きたいと思ってくれるのは嬉しいですね」

唄は半学問。すべて唄から教わった

奄美のシマ唄の「シマ」は、「集落」のことを指し、集落ごとに節まわしや歌詞が違います。つまり、自分が生まれ育った集落の唄は、小さい頃から慣れ親しんできた、いわば身体に染み付いた唄です。

例えば大和村に伝わる「国直米姉節」は、浜川さんにとってはそういう唄のひとつです。
「この唄は昔は応援歌だったよ。運動会の応援歌。各集落でみんなで歌っていた」
「だからあんな『ドッコイ ドッコイ』って言うんですか」
「そうそう、その掛け声をかけながらみんなで応援する」

唄にある「米姉」とは実在した女性だと言われています。また、浜川も得意とする「いきょうれ節」は、「なご坂」という大和村村戸円と、ここ大金久の間にある頂が舞台です。

浜川さんはこう言います。
「私はシマ唄からはたくさんのことを教えてもらいましたよ。唄は半学問と言っていろいろな教えが入っています。うちなんか空襲で学校三年くらいまでしか行けてないんですよ。だけど昔の奄美のシマ唄の歌詞はね、ものすごいことばかりで歌詞が作られているから、本当に勉強になるんです。私にとっては半学以上のことです」
「浜川さんは三味線とシマ唄をここで教えているんですよね」
「地元の公民館でね。みんな、楽しんで唄っていますよ」
「街に行けばいろんな娯楽があるから街の子たちはシマ唄を唄わないけど、こういうところの人たちは特にそうでしょうね」

大和村の周りは海と山だけの何もない場所。浜川さん自身が唄に慰められ、唄によって生きる力をもらったように、今もこの場所には唄が人々の生活の中に生き続けているのです。
「だから、うちらの考えでは、唄を崩すのはダメですね。今はシマ唄を崩す人が多いもんだから、もとの唄が出てこなくなっているんですよ」と浜川さん。
「そうですね。やっぱり懐かしいがなくなる。グッとこないんですよね」
「崩すんだったら新たに作ればいいですよ。昔の唄はそのまま置いておいて、自分で作って唄えばいいんです。崩した唄が伝わっていくと、本当の唄がなくなってしまう。私もシマ唄を教えていますが、自分がシマ唄に教わってきたことを伝えていかなくてはと思いますよ」

そしてこう続けました。
「そうやって唄っていくと、そのうち、その人の声になっていきますよ。努力次第です。元さん、どんどん唄いなさいね。今しか出せない声があるから。年とったら昔みたいに出なくなるからね」

そう言って大きく笑いました。

話を終えると、浜川さんは、近くの海で三味線を鳴らしながら、仕事唄「いとぅ」を唄ってくれました。これは、農作業や機織りのつらさを忘れるために唄ったシマ唄で、浜川さんが何度もこの集落で生活をしながら唄い続けてきた唄です。そして、浜川さんが作ったユスの三味線が、本当に美しく海に響きました。

生活の中でシマ唄を心から必要としてきた浜川さんが作り続けてきた三味線の音色。この音こそ、浜川さんが唄とともに鳴ってほしい音なのだと思います。

(SWITCH VOL.29 NO.8 AUG.2011「元ちとせ 唄に描かれた島の姿 奄美大島・三味線篇」より)

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