2013.04.24
コシダ(Dicranopteris linearis):福島県以南の本州・九州・琉球列島、東南アジア、ニューギニアなどに広く分布する。地下茎を発達させ、地上に葉をのばす。松林や林縁、道路脇、開墾地などの日当たりのいい場所に自生する。
25年前、ぼくが西表島に住んでいたときに、コシダというシダの一種で籠が作れるという話を聞いたことがあった。ボクはさっそくコシダを採りに行った。コシダは林縁の日当たりのいい場所へ行けば、普通に見られるシダ植物なので簡単に入手できる。籠は無理としても、何でもいいから作ってみようと思っていた。ところが、少し曲げただけで、コシダの葉柄がパキパキと折れてしまった。水につけたり、お湯につけたりしてみたが結果は同じだった。結局、ボクは投げ出してしまった。ちょっと曲げただけで簡単に折れてしまうような素材で、どうやって籠を作るのだろうとずっと謎のままだった。
そんな経緯もあって、民具の取材を星さんにお願いしたときに、長年の謎を解くにはまたとないチャンスとばかり、最初にリクエストしたのがコシダの籠だった。ところが、星さんに「今は5月だから無理だな」とあえなく却下されてしまった。その理由は7〜8月じゃないと、折れてしまうので作れないということだった。
7月に稲刈りと豊年祭が終わり、一息ついたところで、星さんにコシダの籠作りを再びリクエストした。星さんは、「ちょうどピデ籠を作ろうと思っていたところだったさ」と材料集めにさそってくれた。祖納地区では、コシダのことを「ピデ」とよんでいる。コシダの籠は「ピデ籠」とよばれていた。
星さんの軽トラックに乗り込み、材料を集めに出かけた。到着した場所は、パイナップル畑の開墾跡地でコシダが一面に群生していた。「この時期のピデは、弾力があって折れないんだよ」と足もとから1本引っこ抜いたもので実演してくれた。なるほどとボクもピデを適当に選んで曲げてみると、ポキッと音を立てて折れてしまった。狐につままれた顔をしていると、その顔がよっぽどおかしかったのか、星さんは大笑いをしながら「オスは折れてしまうからメスを探さんとだめさ」と、メスと思しきピデを差し出した。そのピデは、見事に曲がった。
植物学的にコシダに雄株と雌株があるという話を聞いたことがない。ボクは、星さんのいうコシダの「オス」「メス」とは何なのか質問した。葉柄が枝分かれしているのがオスで、そうでないものがメスだと、両方を見せてくれた。しかし、それがどうしてオス、メスなのか、やっぱり意味がわからない。星さんは、ボクの理解不能な表情を察して、ていねいに説明してくれた。ようするに、枝分かれしているものは、葉柄が太くて見た目が立派なのでオスと呼んでいるだけで、植物の性別ではなく、単純に素材あつめの際に使えるものとそうでないものを区別するための呼び方だった。それにしても、見かけ倒しで使い物にならないのがオスというのは、男として耳の痛い話だ。
西表島では3月にコシダの新葉が出るそうで、それがある程度の長さに成長するのが7〜8月。この年に新しく成長したものをメスと呼び、それだけが籠作りに使える素材になるという説明だった。ただ、そのメスも9月以降になると折れやすくなってしまい、そのまま成長すればやがて枝分かれをして、オスになってしまうということだ。農民にとって超多忙な稲刈りと豊年祭が終わったあとに、わずかな期間だけ作ることができるコシダという素材で作る籠が、どのようにして生まれたのか、今となってはわからない。ピデ籠を単に一地方の民具作りとしてとらえるのではなく、西表島の自然のサイクルと農民の暮らしの歳時としてみると興味は一層深まるのではないか。
昔は村のみんながピデ籠を作っていたので、採られた場所から翌年にあたらしい芽がふいてくる。つまり、それは全部メスなので、探さなくてもメスばかりがとれたそうだ。しかし、時代の流れとともに安価なプラスチック籠が出回るようになり、ピデ籠はしだいに姿を消していった。そして、田んぼのまわりからもコシダが消え、籠作りができる人もいなくなっていった。
材料採りの作業に入ると、星さんはコシダの群生する茂みのなかにはいっていった。茂みの深いところでは、大人がすっぽり隠れてしまうくらいの高さがある。炎天下の中の作業なので、5分もしないうちに玉のような汗が噴き出す。おまけにコシダの胞子が大量に散るので、撮影をしていて、カメラレンズが胞子で真っ白になるほどだった。マツゲの上に降り積もり、呼吸をすると喉がイガイガして不快だった。
「材料採りは、民具作りにおいて最も重要な作業なのだ」と星さんは物作りの度に、訴え続けていた。どんなピデ籠を作るかで、材料の太さも数もちがってくる。最初に作るもののイメージがないと、材料採りはできない。材料集めといっても、ただメスのピデだけを集めればいいというものではない。同じように見えても、太さや長さがみんなちがうので、できるだけ統一した規格で集めなければならない。「今日は80本だな」そういうと、星さんは手際よくピデを集めていった。炎天下と降りそそぐ大量の胞子の中を黙々と材料集めをする星さんの表情は、辛いどころか楽しそうだった。おそらく、思い描いた設計図どおりに仕上げるための構想が頭の中でふくらんでいるのだろう。
「民具を作りたいという人はいるのだが、こちらで材料を用意してあげないとやろうしないんだよ」と星さんはいつも嘆いていた。材料採りこそが、その土地の自然を知るための扉であり、それを工作することが文化に触れることなのである。どちらか一つが欠けても本当の意味での民具作りは成立しない。
材料を持ち帰ると、さっそくピデ籠作りが始まった。ピデは、昼飯を抜きにしてでもすぐに作らなければどんどん堅くなって、折れやすくなってしまうのだという。一番よくないのは、クーラーや扇風機にあたりながらの作業で、5分で材料がダメになる。ピデは乾燥に弱いらしい。ピデ籠作りは、暑くても腹が減っても我慢が大切なのだ。
星さんが、ピデ籠作りの手を休めずに語ってくれた。ピデで作った籠は、水をすわないので、川で洗った洗濯物を入れたり、洗った食器の水切りやそのまま太陽の下に置いて、食器乾燥などに使われていたそうだ。その時代は、ピデ籠作りは子どもの仕事で、星さんの少年時代はよく作らされて、出来がいいと褒められたそうだ。また、ピデ籠は、豊年祭や節祭(しち)などの村の行事で、神に捧げる五穀を入れる籠として使われている。
祭りで使うピデ籠が、破損したりして使えなくなったときに、作る人がいないと困ると、星さんは心配する。生活の中からできあがっていった伝統文化を、時代とともに変化していく生活様式の中でどう保っていくのか、突きつけられた課題は難問だ。
ボクの前に、できあがったばかりのピデ籠が置かれた。25年もの間、心の中でくすぶっていた謎が、疑問が、解決した瞬間だった。