2016.09.14
村人たちは軽トラックに乗り込んで、クーチ採りに出かけた。クーチとはトウツルモドキというつる性植物の現地名だ。村人たちは道路沿いに車を止めると、雑木が生い茂る藪の中へ入っていった。新盛家の修復に必要な材料であるクーチも、西表島では道路際などで普通に見られる植物だ。藪の中はクーチのつるが四方八方に伸びていて前へ進みにくかった。村人たちは藪の中で散らばり、使えそうなクーチをさがす。できるだけ真っ直ぐにのびていて、枝分かれをしていないもの、あまり若くないものを選ぶ。
村人の一人が「若いとミジカッターだから使えんサー」と言いながら吟味したクーチを根元から鎌で切っていった。「ミジカッター」とは何か聞いてみたが、直訳すると「水がたくさん」ということらしいが、それがどういう意味をなすのか、この時はまったく見当もつかなかった。
クーチは木にしっかりと絡みついているので、根元を切ったあとは、引っ張って採るのだが、力自慢の男性をもってしても簡単に引き抜けない場合もある。そんな時は、応援を呼んで、大人数人掛かりで引っ張り抜く。その光景は、樹木を相手に綱引きをしているようで滑稽だった。村人たちも自分たちの姿を客観的に想像できるのだろうか、「綱引き」の時は現場が笑いの渦につつまれた。
村人たちは公民館にもどると、早速、クーチを1本ずつ手にとってそれを3つに裂き始めた。そして、裂かれたクーチの内側ある「バダ」と呼ばれる部分を手際よく剥ぎ取っている。バダ取り作業だ。バダとはお腹とか内臓という意味だそうだ。バダは植物学的にいうと「髄」にあたる。確かに髄は植物の内部にあるので、内蔵という表現はイメージできる。バダを残してしまうとその部分からカビが生えてしまい、腐りやすくなってしまうそうだ。クーチは材料としては竹に負けないくらい強度があり、水にも強い。家づくりではロープの役割をするので、長持ちさせなければならないのだ。だから、手間を惜しむわけにはいかない。
村人たちといっしょに、私もバダ取りをしてみた。束ねてあるクーチから1本抜き、3箇所に切り込みを入れバナナの皮をむくように3等分に裂くのだが、これが実際にやってみるとなかなか難しい。どうしても村人たちのように太さが均一にならないのだ。バダ取りどころか、まず均一に裂く作業で躓いてしまった。理論的には、植物の繊維は根元の方から成長していくので、成長点である先端の方から裂けば真っ直ぐにいくはずだ。そんな知識があっても私は真っ直ぐに裂くことができなかった。村人たちはそうした知識を体験の中で学び、生活の知恵として応用している。初めてこの作業をしたという村の婦人もすぐにコツをつかんで、クーチを均一に裂いてスイスイとバダ取りをしていた。家づくりは昔から男の仕事だった。この女性に経験がないというのは、このことを如実に物語っている。
バダ取りの際、強引に剥がそうとして、指の爪が欠けてしまった。村人たちの中に、この作業で爪が欠けてしまった人はひとりもいない。手を休めてしばらく村人たちのやり方を見ていると、まず、バダの部分がしっかりと三角になるように切り込みを入れていた。クーチの固定の仕方もまちまちで、肘にはさむ人、口にくえる人、首で固定する人など、さまざまなスタイルがあった。
みんなのやり方に習って、私もバダ取りを再開しようとクーチの束から1本とりだしたものの、どういう訳かポキポキと折れてしまいバダ取りができなかった。私が悪戦苦闘している様子を見て、村人の一人が笑いながら、「それミジカッターさ、使えんよ」と声をかけてきた。クーチ採りをしていたときにミジカッターと呼ばれているものだった。若い個体は水分が多く繊維がしっかりしていないので、バダを取るときに折れてしまうのだ。なるほどこれがミジカッターなのかと実感できた。「水がたくさん」とはこういう意味だったのだ。
村人たちは、黙々と作業をしながらもゆんたく(おしゃべり)が絶えない。バダの話から、誰かがよく怒る人のことを「バダフサリ」というのだと、私に向かって解説すると、それぞれがそれぞれに誰かを思い浮かべたのだろう、一気に爆笑となった。
こういった作業は、村の年寄りにとってみんなで話をするいい機会にもなっていて、楽しそうだった。一人のオバアがムカデに噛まれた話をした。ムカデのことをモザというのだが、その時にカサンパ(クワズイモ)の茎を塗ったら治ったと話していた。クワズイモの茎から出る汁は毒があるといわれ、さわるとかぶれる人もいるのだが、毒を毒で消すやり方は、昔ながらの知恵なのだろう。
作業場は年をとるにつれて家の中に籠もりがちになってしまう老人たちの社交場であり、さまざまな知恵の情報交換をする場所になっていた。