2016.12.16
海岸付近の道路際で、民具作りの達人・星さんの軽トラックを見つけたが、姿が見えない。藪の中でガサガサと葉がこすれる音がしたので、目をこらすと鎌を持った星さんを見つけた。何やら材料採りをしている様子だった。星さんが集めていたのはアダンの気根。アダンは沖縄地方では、海岸付近で普通に自生している植物だ。パイナップルに似たオレンジ色の大きな果実をつけることから、「パイナップルの木」と観光客からよく間違えられる。ちなみにパイナップルは木にはならない。星さんはアダンのたこ足のような気根を吟味しながら丁寧にカマで切り取っていた。私が星さんに挨拶をすると藪から出てきて道路際の木陰に腰を下ろした。手には採ったばかりのアダンの気根が握りしめられていた。手の中の材料を眺めながら「これで昔ながらのアンツクを作ってみようと思っているさ」と小さな声でつぶやいた。
アダンの材料採りは、10月か11月頃から2〜3ヶ月の間に行われる。それは、新しいアダンの気根が伸びる時期で、その後は材料が木材のように堅くなってしまったり、気根に虫が入ってしまったりで、繊維を取り出すことができなくなるということらしい。また、沖縄地方では、ちょうどミーニシ(季節風)が吹き始める頃で、この時期には東南アジアで越冬する渡り鳥のサシバが通過する。サシバが渡ってきた時が材料採りの合図になり、逆にその姿が見えなくなったら、アダンの材料採りも終わりと昔からいわれているそうだ。
このような自然暦は、今でも、村人の生活の中で普通に使われている。例えば、海岸のグンバイヒルガオの蔓が海にむかって延びていると、その年は台風があまり来ない。カンムリワシが飛びながら鳴くと天気が回復するので、稲刈り時期はたとえ朝に雨が降っていてもあえて作業をしていたという話もある。村人たちは、テレビやインターネットの天気予報と昔ながらの自然暦を組み合わせて、自然現象に対応している姿をよく目にする。自然暦を組み込むことで、より精度が上がっているような気がする。
星さんが小さかったころは、アダンの材料採りは子供の仕事で、とってきたものを裂いて乾燥させてから繊維を結って紐にしていた。その紐はまず田植えの時の線引き用ロープに使われていた。当時作っていたお米の品種は現在のものと違い、12月頃から田植えが始まる。アダンの紐は、線引きに使われることで自然と泥染めされ、腐食しにくい丈夫なものになる。その紐は、次に子供たちが旧暦の正月に遊ぶ凧揚げに使われる。アダンの紐は木綿の糸より太いが、軽いので凧がよく揚がるのだという。最近行われた石垣島の凧揚げ大会で、アダンの紐を使ったが、「こんな太い糸で揚がるわけがない」と馬鹿にされたにもかかわらず、すいすい凧が揚がるので、みんなに信じられないという顔をされたそうだ。
子供たちの凧揚げが終わると、今度は父親がその紐でアンツクをつくるのが日常だった。アンツクとは物を入れる籠のようなものだ。おもに、潮の引いた海でタコや魚、貝などの獲物を入れるのに使われていた。
稲刈りの合間によくタコを捕りに海に出たそうだ。「タコを捕るとアンツクの網の目から足がだらりと下がっていたさ」と星さんが回想する。捕ってきたタコは、水分が完全になくなりカチンカチンに堅くなるまで日干しにする。その足を少しだけ切り取ってもらい、子供たちはそれをしゃぶっていた。そうすると、だんだんと柔らかくなっていき、味も出てくる。長い時間味わえるいいおやつだった。また、薄く切って煮込むと柔らかくなり、出汁を取りつつ味噌汁などの具材となった。本格的に出汁をとるときは、鰹節のように削って使った。
アンツクには、海に持って行く籠タイプのほかに、弁当箱タイプもあった。山仕事をするときに、昼飯をタオルに包んで持って行き木に吊しておくと、カラスに盗まれてしまうことがあったので、誰かがアンツクをお弁当箱に改良して山へ持って行くようになったのが始まりだったようだ。ほかにも、農具を入れる丈の長いアンツクもあった。
そのすべての作り方を記録するために保存しておきたいのだが、どうしても繊維がぼろぼろになってしまい4〜5年しかもたないので、星さんの記憶の中だけのものとなっている。アンツクも農民にとっては、使い捨ての道具のひとつで、長期間保存の必要はなかったのだろう。
数日後、星さんの家を訪ねると、縁側でアンツク作りをしている最中だった。編み棒と手製の木箱の型を使っていた。木箱には釘が打たれていて、そこが物を出し入れする口の部分になるらしい。釘はアダンの紐を引っかけて作業をしやすくするための工夫だ。編み棒も最初は竹の棒を使っていたが、その後、8番線という太さの針金(直径3.2mm)を使うようになり、現在のスタイルになったのだという。「道具は何でもよく、ちょうどいい物が見つかればそれを使う」というのが星さん流のスタイルなのだ。
アンツク作りは、農作業を終えた夕方にやっていたものだが、その時間はゲートボールで忙しくなってしまったので、最近ではお昼の休憩時間にやっているそうだ。星さんは時間という潮流に流されながらも、少しもぶれることもなく伝統的な民具作りを続けている。「ちょうどいい物が見つかればそれを使う」という臨機応変なスタイルが、続けられる秘訣なのかもしれない。
「西表時間」の潮流の中には、10年間ほどだがぼくもいた。1985年から1994まで西表島に移り住んで生活をしたときがそうだった。その当時は水牛を使って稲作作業をしている風景が普通にあって、ぼくにとってはすべてが当たり前だった。ところが、その当たり前の風景がぼくの頭に残ったまま、水牛は機械に変わり、気がつくと1頭もいなくなっていた。思わず、村人に「いつから水牛がいなくなった?」と聞いたことがあった。「そんなの、もうとっくにいないよ」と呆れられてしまった。ぼくの西表時間は止まったままだった。
星さんと初めてで会ったときの「ゴミ捨て場に捨てられた古い民具を拾い集めて作り方を学んだ」という言葉がふいによみがえった。星さんは知恵の痕跡を拾い集めて伝統文化という小舟を作り、その小舟で時代の流れを行ったり来たりしながら稲作文化を守ってきたのだ。星さんだけでなく、老いも若きも祖納村の人たちは、みんなその小舟に乗って時代を行き来し続けている。
ほんの少しだが、ぼくも村人といっしょに小舟に乗って西表時間を旅することができたような気がした。(了)