2012.01.17
宮古島空港に降り立ったとき、私はこれまで訪ねた島々とどこか違う開放感を感じました。そして、ふと、宮古島には山がないことに気づいたのです。目の前に広がるサトウキビ畑は海まで続いていました。
最初に訪れた平良市熱帯植物園の放牧場では、母馬のかたわらで小さな子馬がはねまわっていました。「今朝生まれたばかり」と、馬たちの世話をしている宮古馬保存会のメンバー、荷川取(にかどり)さんが教えてくれました。この子は宮古馬の将来につながる大切な命なのです。
現島の方言で「スマヌーマ」「ミャーコヌーマ」と呼ばれる宮古馬。島に渡来したのは5~6世紀ごろ、馬を積んだ中国への輸送船が難破して馬が島に泳ぎ着いたのではないかといわれています。
1609年の島津家久(初名:忠恒)の琉球侵攻を機に、琉球政府は江戸幕府へ馬を献上するようになりました。そこで琉球政府は、平坦で原野が多い宮古島の農民に献上馬の生産を命じます。島には馬役人が派遣され、献上馬選定のための馬場が設置されました。宮古島は沖縄随一の馬産地となっていきました。
明治になると農作業にも馬が利用されるようになり、飼育数は3500頭以上に及びましたが、農民は乗馬や競馬を禁止されていたそうです。1894(明治27)年、農民代表の人々が藩政時代を通して島人を苦しめていた人頭税の廃止を国に約束させました。人々は喜びに沸き、その祝宴の余興として宮古馬による競馬を開催しました。宮古島で初めて開催されたこの競馬は、大変なにぎわいだったそうです。競馬が行われた鏡原馬場は、現在、宮古市指定の史跡になっています。
10年後の1904(明治37)年に人頭税が廃止されると、農業が急速に発展します。サトウキビ運搬などに従事する宮古馬の数はさらに増え、それとともに各地で農民による競馬が盛んに行われるようになりました。それはコースキ(カースキ)といって小刻みにできるだけ速く前進する「側対歩」という走法に限られるもので、サラブレッドのようにギャロップで走る馬は失格になったそうです。駄馬(荷物を運ぶ馬)として重宝されていた宮古馬は、振動が少なく荷崩れをおこさない馬が優秀とされていました。
一方で大型化を目的とした宮古馬の雑種化、そして農業の機械化が進みます。そして1956(昭和31)年をピークに、馬は数を急激に減らし、純粋な宮古馬も絶滅寸前に追い込まれたのでした。
1977(昭和52)年、農家から宮古馬を買い上げて、平良市熱帯植物園における集団飼育がスタート。1980(昭和54)年には宮古馬保存会が結成され、宮古馬はかろうじて命をつないだのです。
その熱帯植物園で新たな命に出会えたことは本当に幸運です。荷川取さんは、宮古島で毎年行われるトライアスロン大会に出場している選手のご家族を案内していました。毎年会場に赴く宮古馬は選手たちの人気の的になり、大会後に熱帯植物園の近くにある荷川取さんの牧場で乗馬を楽しむ選手もいるそうです。また、毎年7月にサニツ浜で開催される競馬では宮古馬によるレースが組まれ、大勢の人で賑わうと聞きました。人頭税から解放されたときから始まった宮古島の人々の競馬は、今も続いているようです。
浜競馬に毎年欠かさず出場するという与那覇(よなは)さんを訪ねました。愛馬、勝利号は宮古馬の種馬であると同時に、島で一番優秀な乗用馬だそうです。体格のいい与那覇さんをものともせず背に乗せ、サトウキビ畑が広がる道を力強く走る勝利号はとても20歳を超えているとは思えません。乗馬を終えた勝利号は放牧地に戻ると、一緒に暮している若い牝馬に堂々と求愛です。宮古島で馬を飼っている個人のお宅は、牡馬と牝馬が一年中一緒に放牧されているケースが多く、一夫一婦のような暮らしをしていることに驚きました。種牡馬と牝馬の群れは、種付けシーズンを除き、別の場所にいるのが一般的だからです。琉球政府の御用馬を生産していた時代は牧場も多く、馬は放牧という形で育てられていましたが、昭和初期に発生した牛の伝染病をきっかけに、馬もこのような厩飼い方式になったそうです。
人に対してこの上なく親愛の眼を向けてくれる馬たち。長い歴史の中でいつも人々とともにあった証なのでしょう。サトウキビ畑に渡る風を感じながら、私は時間の許す限り、馬のそばで過ごしたのでした。