2013.02.06
中之島にトカラ馬の群れが暮すようになってから30数年、鹿児島大学入来牧場で生まれた2頭のトカラ馬が半世紀ぶりに宝島に里帰りしたことを知りました。平成20年(2008年)秋、馬が本来の故郷である宝島に到着したときの歓迎ぶりは相当なものだったそうです。
私は今こそがトカラ列島を訪ねる機会だと思いました。そして宝島と、現在トカラ馬の群れが放牧されている中之島への旅を計画しました。週2便の船で2つの島に行くためには、最短でも1週間の日程が必要です。先ず列島最南端の宝島を訪れることにして、奄美大島の名瀬港を明け方4時に鹿児島へ向けて出航する上り便を利用しました。「フェリーとしま」は11月の荒れた海の中を航行し、朝7時、最初の目的地宝島に到着したときは、万感の思いがこみあげました。
到着日の午前中、宿泊する民宿の御主人が車で島を案内してくれました。宝島は起伏に富んだ島で高い山もありますが、海沿いは岩が連なる海岸やサンゴ礁の砂浜が続いています。山裾の草地にはたくさんの牛が放牧されていました。美しさと険しさを併せ持った多様な自然に育まれながら、人々とトカラ馬が暮していた当時に思いを馳せました。
午後、結成されたばかりの宝島トカラ馬保存会のメンバーの一人・牧口光彦(まきぐち・みつひこ)さんの案内で、里帰りした2頭のトカラ馬に会いに行きました。牧口さんは奥さんと一緒に東京から宝島に移り住み、島で生まれた3人のお子さんたちとともに、塩をつくりながらNPO法人トカラ・インターフェイスの執行部としてトカラの島々の活性化に取り組んでいました。故郷である宝島にトカラ馬を里帰りさせたこともそのプロジェクトのひとつだったのです。保存会手作りの放牧場に暮す牡馬のリキと牝馬のハナは、ともに1歳。あどけない表情がなんとも愛らしく、人にもよくなついていました。里帰りした馬たちが島の人たちにやさしく受け入れられていることを感じました。
滞在中、元十島村の村長を務められ、「十島村誌」の編纂にも力を注がれた松下伝男(まつした・でんお)さん(取材当時77歳)にお話を伺うことができました。
かつては、どの家でも少なくとも1頭のトカラ馬が飼われ、牛とともに農耕に使われていました。黒毛の馬が多かったそうです。松下さんの家でも馬を飼っていましたが、足の速さが砂糖車を動かすのに適していたため、主に砂糖製造に使役したといいます。仕事が忙しい時は馬小屋でたっぷり食べさせ、仕事がない時は砂浜に繋牧(けいぼく:繋がれて放牧されていること)しました。宝島の浜辺は素足で歩くと切り傷ができそうなサンゴの砂。馬は蹄が適度に削られて削蹄の必要はなかったそうです。馬具はすべて手作りでした。馬を制御するための木製の馬具「オモゲー」は生茂るアダンの根をよって作られました。この「オモゲー」は奄美大島や沖縄にも見られ、同じ用途の馬具でも金属製の「クツワ」を使用した九州本土とは大きく異なる点です。
一番興味深かったのは、トカラ特有の民俗行事である七島正月と馬のかかわりです。トカラ列島には、11月末から12月にかけておこなう七島正月があります。その由来は、昔平家の落人が島に流れ着いたときに早めに正月を祝った、あるいは、島津氏の琉球侵攻の水先案内をしたトカラの人々が正月行事を早めた、とも言われますが、この時、宝島では庭に雪にみたてた砂をしきつめて門松を立てるそうです。その砂を海岸から運んでいたのが馬でした。海から砂を運ぶ馬たちの姿は、島の風物詩だったのです。「海岸に行くときは重い砂を運ぶ馬に負担がかからないよう引き馬をしていくけれど、子供心に時々背に乗せてもらうのが何よりの楽しみだった」と松下さんの奥様が懐かしそうに話してくださったことが印象的でした。
昭和41年当時のトカラ馬と飼い主さんが写る貴重な写真。このとき島に残るトカラ馬の雌はたった1頭で、宝島における繁殖は断念されました。11年後の昭和52年、ついに宝島最後の1頭となった雄が、中之島へと移動し、島から馬がいなくなったのです。
トカラ馬が島にいた頃のことをよく知っている前田彦雄(まえだ・ひこお)さんにもお話を伺いました。砂糖製造だけでなく運搬にも使われていたトカラ馬は、小柄で扱いやすかったため、喜界島から大型の農用馬が種馬として島に来たときも、トカラ馬と交配させる人はほとんどいなかったそうです。宝島は馬産地ではないので、馬を島外に売ることはせず、常に1世帯に1頭、多い家では2、3頭が飼われていました。また宝島では肉はとても貴重でしたが、馬肉は決して食べなかったといいます。馬はよく体をふるわせるので、食べると病気になると信じられていたのだそうです。前田さんが大切に保管している古い写真には、昭和41年(1966年)に撮影されたトカラ馬と飼い主さんの姿がありました。それは黒くて凛とした立派な姿でした。前田さんによると、それが宝島最後のトカラ馬の牡馬だったそうです。だとするならば、このトカラ馬がやがて中之島へと渡り、新しい群れを作る基礎を築いたことになります。
実はこのとき、宝島から中之島へ訪問する予定をしていました。ますます膨らむ中之島のトカラ馬への思い。ところが、悪天候の影響で断念せざるを得なってしまったのです。そう簡単には人を寄せ付けない島、トカラ。この後、実際に中之島の土を踏むことができたのは、これから2年後のことでした。