2013.05.31
新宿から「特急あずさ」に乗り、塩尻で中津川方面へ向かう列車に乗り換えると風景が変わり、列車は幾重にも連なる山の合間をぬうように走っていきます。「木曽路はすべて山の中……」、島崎藤村が表現したとおりの風景です。西国と東国を結ぶ中山道は川留がなく、昔から多くの人が利用した街道といわれますが、その途中、山の谷間を流れる木曽川沿いに栄えた11の宿場町、贄川(にえかわ)、奈良井(ならい)、薮原(やぶはら)、宮ノ越(みやのこし)、福島(ふくしま)、上松(あげまつ)、須原(すはら)、野尻(のじり)、三留野(みとの)、妻籠(つまご)、馬籠(まごめ)が木曽路とよばれます。そしてこの土地で生まれ育ったのが木曽馬です。土地の人々は誰もが言います。「木曽馬なくして木曽の歴史は語れない」と。
木曽福島の河沿いにある青木地区。江戸時代中ごろに発足した木曽の馬市は、昭和30年頃までここで開かれていました。7月の市は「半夏市(はんげいち)」、9月の市は「中見市(なかみいち)」とよばれ、日本三大馬市として大変な賑わいでした。
木曽の馬産の歴史は古く、大宝律令(701年)による牧場の制度化で、霧原牧(現在の岐阜県中津川市神坂辺り)において馬が生産されていたという記録が残ります。その後、木曽街道の開通によって農耕文化が定着し、馬たちは山間高冷地の厳しい自然に適応する農耕馬として育てられました。
江戸時代には、尾張藩管轄の代官・山村家がおこなった「毛附(けづけ)制度」によって木曽の馬産が確立します。それは領内の当歳駒(その年に生まれた馬)の戸籍をつくって自由売買を禁じ、2歳、3歳と毎年選定を重ねて領内に残す馬と売却する馬を振り分ける、というものでした。このため1760年ごろから馬市が開催されるようになり、福島県白河、鳥取県大山と並ぶ日本三大馬市のひとつとして賑わったといいます。17世紀後半頃からは、農民が富裕な馬主から馬を預かって飼育する馬小作制度が一般的となりました。
日本が軍国主義に傾いていった明治時代、外国の大型種牡馬導入によって、木曽馬は次第に淘汰されるようになりますが、木曽の人々は密かに純系木曽馬の生産を続けていました。それは木曽の畑作農業の維持に厩肥(きゅうひ)が欠くことのできない肥料だったことも大きな要因ですが、小格(こかく/小型)の木曽馬は実際に馬の世話をする女性でも容易に扱うことができ、荷物を積んで山道を歩くことも得意だったからです。何よりも人々は木曽馬の温厚な性格を愛していました。木曽馬の農耕馬としての体型、性質こそが、木曽谷の人々の生活を支えていたといっても過言ではないのです。
やがて軍馬徴発によって数が激減した木曽馬。終戦後、木曽馬の血脈をもつ牝馬が残っていたのは奇跡でした。49頭の牝馬が繁殖馬として登録され、昭和26年、長野県更埴市(こうしょくし)の武水別神社(たけみずわけじんじゃ)に御神馬として残されていた木曽馬の牡馬神明号と鹿山号との間に牡馬が誕生します。この馬こそが、現在の木曽馬復活の根幹をになった第三春山号でした。昭和44年木曽馬保存会結成。昭和58年には20頭の木曽馬が長野県天然記念物指定され、平成以降はジーンバンク事業(希少家畜の精子凍結)も進められています。そして開田村では、馬を飼育する人たちの老齢化をうけ、木曽馬の集団飼育施設として平成7年に「木曽馬の里」を開設。木曽馬の最後の砦として、最大50頭の木曽馬を飼養することができるようになりました。
現在全国で飼育されている木曽馬の数は160頭前後、その3分の1にあたる50頭ほどが彼らの故郷・木曽で暮しています。
私は代々木曽馬とともに生活をしてきたという原幸男(はら・ゆきお)さんの家を訪ねました。原さんのお宅は上松町(あげまつちょう)の東奥(ひがしおく)という山間の集落にあり、厩と人の住いが同じ棟の下にある木曽特有の古民家です。玄関を入ると南側の暖かな場所が厩、北側に人の住む部屋があり、対面するようになっています。これは常に馬の様子がわかるように工夫された構造です。厩は堆肥作りのために地面より1メートルほど掘り下げられ、毎日大量の草を刈って入れます。その草は馬の飼料となる一方で、堆積するにつれて下のほうから堆肥となります。この繰り返しで、見下ろしていた馬の背が天井に達するころには、たくさんの堆肥ができるそうです。原さんのお宅では、馬の堆肥を利用して作物を作っていました。山間高冷地である木曽の農業は、馬の堆肥に頼るところが大きかったのです。馬の堆肥でつくった原さんの作物はとても美味しいと地元でも評判でした。
開田村末川にある丸山馬頭観音。木曽の三大馬頭観音の一つで、かつては家で子馬が生まれると必ずお参りしました。縁日にあたる旧4月8日には出店などが出ておおいに賑わったそうです。飼っている馬の具合が悪くなると観音堂の下にある絵馬堂に祀られた鋳物の馬像をさすり、その手で飼い馬をなでると、馬の病気が治ったといわれます。村の人たちが馬をとても大切にしていたことが伺えます。
原さんの家の厩には、福豊という牝馬と春に生まれた子馬がいました。原さんが親子馬を散歩に連れ出すというので、奥様のとめさんが母馬と仔馬にムクチ(正式名称は無口頭絡。厩舎から馬を引き出すときなどに使う頭絡の一種で、馬の口にくわえさせる金属製の馬具や手綱がついていないもの)をつけました。その手つきは、なんとも手馴れたものです。
かつての木曽の農家では、女性が馬の世話係でした。「嫁をとるなら厩を見よ」といわれ、馬の世話がきちんとできる家の娘ならば申し分ないとされました。馬の世話をはじめ、野良仕事や草刈といったきつい労働は女性の役割だったのです。一方、馬たちの仕事は仔馬の生産と堆肥作りで、使役に使われることはほとんどなかったといいます。家族同然に愛しまれ、ムチでたたかれることも罵倒されることもなかった木曽馬は、木曽の立地条件や人情風俗が長い年月をかけて育てられた馬であることを知りました。木曽には人と馬の絆を物語るエピソードが数限りなく伝えられています。
昨年12月、原さんが高齢のために長年愛しんだ福豊を手放すと聞き、私は雪解けを待って木曽を再訪しました。少し体調を崩されていた原さんに代わって、奥様のとめさんと娘の澄子さんが出迎えてくれました。寒さ厳しい木曽にも春の息吹が感じられる中、福豊は澄子さんに連れられて散歩にでます。ほんの少し顔を出した青草を夢中でほおばる福豊を愛しそうに見守るとめさんと澄子さん。福豊は5月初旬、県外の家に引き取られることになっているそうです。
「あきちゃんって呼んでいました。馬はずっと昔から飼っていて、この子も2歳で我が家に来たからもう15年一緒です。父に教わって馬の扱い方を覚え、散歩は私の役目でした。」と澄子さんが話してくれました。
前回上松を訪れたとき、馬を飼育している家は3軒でした。けれどこの数年で2軒に減り、今また、農家から馬がいなくなろうとしています。
「木曽馬の里」は木曽福島からバスで40分、御岳山の麓・開田村(現・開田高原)にあります。開田村は標高1100メートル、冬はマイナス20℃の日が続く土地。それゆえかつては米作りもままならず、農業はもっぱら馬の堆肥や労力に頼っていたため木曽馬の飼育数がもっとも多い地区でした。平成7年に建設された「木曽馬の里」には現在30頭ほどの木曽馬が飼育されています。木曽馬保存会の事務局がおかれ、種の保存や種牡馬の精液検査などの繁殖事業に加え、乗馬や引き馬、ホースセラピー、馬車、馬耕、時代行列、流鏑馬、騎馬打毱(きばだきゅう)など地元の学校や県外の様々なイベントの企画・参加など活発な活動が続けられています。事務局を任されているのは岡崎出身の中川剛(なかが・わたける)さん。平成9年、木曽馬に魅かれて開田村へ移住し、地元や各機関との連携を深めながら木曽馬の保存・活用に尽力されています。原さんのように高齢のために馬の飼育を諦めざるを得ない農家がある一方、中川さんのように未来に向けて活動する人がいるのです。
人と馬が同じ屋根の下で暮す土地独特の民家は、木曽だけでなく岩手県遠野地方にも伝わっています。どちらも冬場の寒さが厳しい山間高冷地。夏はアブやハエが多く、堆肥作りをしているための匂いもあり、必ずしも衛生的ではないかもしれません。けれども馬の健康状態を常に見守ることができる家というのは、馬の存在がいかに大切であったかを物語っています。木曽も遠野も、馬がいなければ生活ができなかったのです。
最近では、馬は個人の家ではなく「木曽馬の里」のような集団施設で飼育されるケースが多くなっています。それは仕方がないことかもしれませんが、馬と人がともに暮してきた長い歴史、培われた風土・文化は、受け継がれていってほしい、そう願っています。
開田高原
長野県木曽郡木曽町開田高原末川1895 TEL.0264-42-3350
営業時間:9:00〜17:00(夏期無休)
http://www.kaidakogen.jp/
木曽馬の里
長野県木曽郡木曽町開田高原末川5596−1 TEL.0264-42-3085
http://www.kis.janis.or.jp/~kiso_uma/