2014.08.19
日本の在来馬、それは昔から日本の風土の中で生き、土地の人々によって長い年月をかけて育てられてきた馬たちです。いずこの地でも人とともに働き、生きてきたというのが在来馬の大きな特徴ですが、今回はこれまでと少し違った暮らしをする御崎馬を宮崎県都井岬に訪ねました。彼らは長い間「放牧」という形で管理され、自然の成り行きのまま子馬が誕生し、あくまで自力で採食しながら都井岬の自然環境に対応して生きる馬たちです。それゆえ彼らは「野生馬」と呼ばれています。
推古天皇が「馬ならば日向の駒」と歌ったほど、かつて日向国(現在の宮崎県)とよばれた地域では馬産が盛んでした。朝廷が直轄する全国28箇所の馬の牧場のうち、3箇所が日向国にあり、農耕、交通、輸送、戦争、狩猟など、馬は日向の人々にとって欠かせない存在だったのです。
源平合戦の後、日本各地では力をつけた武士が台頭するようになり、日向でも延岡、高鍋、左土原、飫肥、そして都城薩摩の5藩が領土を治め、藩政時代を通して盛んに馬産を行いました。このうち高鍋藩では、領内の福嶋地方(現在の串間市)にもっとも力を注ぎ、御牧(おんまき)とよばれる藩営牧場(藩牧)が、都井の御崎牧場を含めて7箇所もありました。民間や個人が経営する里牧(さとまき)80箇所をあわせると、当時この地方には6000頭もの馬がいたといわれています。馬は藩の軍馬としてだけでなく、領内の農耕馬としても重宝されていました。
高鍋藩の馬の管理は放牧中心で、あまり人が手をかけることはありませんでしたが、藩営牧場では毎年秋に「駒追い」(「駒取り」とも呼ばれる)を開催していました。これは、馬の検査を兼ねて、前年に生まれた牡馬を捕らえる行事です。高鍋藩当主自ら牧奉行を従えて牧場に出向き、現地の村人も総出で参加しました。人々は草地だけでなく林や谷にいる馬たちを追って一箇所に集め、頭数や毛色、年齢、生まれた子馬の検査をします。そして牝の子馬と種牡馬候補の牡馬数頭を再び牧場に放し、あとの牡馬は民間に払い下げていました。当時の牧は、1頭の牡馬に牝馬20頭の割合で放牧し、繁殖させるという「まき馬方式」が一般的だったのです。藩政時代の初期には軍事用の騎馬や運搬用として馬産が行われていましたが、時代が進むにつれて農耕用の意味合いが強くなっていきました。農耕馬となった馬たちは次第に雑種化が進みますが、牧場に残った馬たちは牧場内で自然繁殖を繰り返していたために、都井岬の馬はかつての日向駒の特徴を今に伝えているといわれています。
1867年(慶応3年)の大政奉還による王政復古にともない、藩牧、里牧ともに廃止となり、藩牧は明治政府直轄となります、しかし牧は放任されたため、都井村、宮ノ浦の人々は155名からなる御崎牧組合を結成し、御崎牧場の払い下げを申請します。1874年(明治7年)、申請が受け入れられ、都井岬の土地だけでなく、馬、木を含めたすべてが地元住民の管理するところとなりました。
払い下げられた当時の馬の頭数は約150頭、その後、減少傾向をたどりましたが、1953年(昭和28年)に「自然の中で生きている日本特有の家畜」として、御崎馬は生息地である都井岬とともに国の天然記念物に指定されました。やがて訪れた観光ブームの波にのり、林産物の売り上げを充当して馬の保護管理を進めてきた牧組合に対し串間市が保護事業計画を打ち出しました。昭和43年に設立された都井岬馬保護対策協力会の活動が加わり、馬の数は回復、現在は約100頭の馬が都井岬で暮らしています。
現在、御崎牧組合員は96名、誰もが先祖から受け継いだ土地や馬を守るという強い思いをもっているのだと聞きました。
都井岬(約550ha)には小松ヶ丘と扇山という2つの山があります。馬たちは、夏場は中腹から上の草地で、冬場は海岸に近い林の中で過ごすことが多いそうです。1頭の牡馬に対して数頭の牝馬から成るハーレムがあり、子馬は毎年それぞれのハーレムの中で誕生します。1歳から2歳になると子馬は生まれたハーレムを離れ、牝馬は他のハーレムに加わるか、若い牡馬と新しいハーレムを作って子育てをします。一方牡馬は4歳ごろまで牡馬だけの群れで過ごした後、既存のハーレムを奪うチャンスを狙います。そのため春の繁殖の時期は、牡馬同士の激しい争いが起こります。
御崎馬は自然の中で暮らしていますが、常時、保護対策協力会の二人の監視員が馬を見守っています。世話をするためではなく、監視と正確な記録をとるためです。餌は与えず、病気や怪我をしても手当てせず、馬が死んでもそのままにしておくそうです。
一見、御崎馬は「野生馬」のように見えますが、それは少し違うと思います。
毎年5月下旬には都井岬で「馬追い」が行われています。これは都井岬馬保護対策協力会の仕事の一環として行われるもので、藩政時代にも実施されていた「駒追い」と同じように、普段、野生状態で暮らす馬たちを一箇所に集めて一頭一頭の馬にダニ駆除の薬を飲ませ、採血をし、1歳になる子馬に焼印を押していきます。御崎牧組合員をはじめ、串間市役所の職員、宮崎大学獣医学部の学生、そして県内から募集したボランティアなど総勢100名ほどが参加します。そのほか協力会の仕事として、1月末から2月には草地を守るための野焼きや、馬が食べない草やごみ、危険物の除去などを行なっています。
御崎馬は一般に「野生馬」とよばれています。それは彼らが自然の中で馬本来の姿で暮らしているためですが、彼らが「野生馬」として生きるために、地元の多くの人が彼らを見守り、その生息地の環境を整えているのです。たとえ「野生状態」にあっても、御崎馬はほかの土地の在来馬と同じように、人との繋がりの上に生きてきたのだと思います。そして改めて、日本の馬たちと、馬とともに生きる人々の多様な姿に感銘を受けました。