#15 初午祭を走る対州馬 -長崎県対馬市-

#15

文・写真:高草操

2014.12.10

山の国、対馬

2002年4月、私は「対州馬」(たいしゅうば)を撮影するために初めて対馬を訪れました。対馬空港の到着ロビーを出ると、遥か彼方まで連なる広大な山並みに圧倒されました。一番遠くに見える標高の高い山は霞んで見えます。対馬は山が多いとは聞いていましたが、まさしく「山の国」だと実感しました。

対州馬振興会(現・対州馬保存会)事務局の井勝則(い・かつのり)さんが島を案内してくださいました。対馬は複雑に入り組んだリアス式海岸の浅茅湾(あそうわん)をはさんだ細長い大きな二つの島からなります。島の北側から韓国釜山までは50km足らず。晴れた日には釜山の町が見える一方、釜山から望む対馬は2頭の馬が背中を並べているように見えるため「対馬」と呼ばれるようになったそうです。

井さんは対州馬について一番詳しく、ご自宅で馬を飼育しているという豊玉町(とよたまちょう)の波田幸人(はだ・ゆきと)さんのご自宅に案内してくださいました。敷地内の柵がない馬小屋に2頭の牝馬、向かい側の厩舎に種牡馬である立派な黒い馬がいて、そのとなりの小さな窓から愛くるしい子馬がちょこんと顔を出していました。けれどもこのとき、波田さんはお留守でお話を伺うことができませんでした。

その後、美津島町(みつしまちょう)にある個人宅の放牧地や対州馬の集団飼育所に案内して頂きました。集団飼育所には10頭ほどの馬がいて、その中には産毛がふわふわした小さな子馬が気持ちよさそうに昼寝をしてます。生まれたばかりのようでした。この時、ここにいた馬たちは、近いうちに完成する観光施設(現在の「あそうベイパーク」)の厩舎に移動するということでした。

朝鮮外交と島民の生活を支えた対州馬

島の南にある厳原町(いづはらちょう)は情緒豊かな港町であると同時に対馬藩主宗家の立派な城下町で、対馬の官庁街にあたります。対馬藩は、朝鮮との和平交渉や朝鮮通信使の世話を一手に担っていました。対州馬の歴史は古く、「続日本記」(739年)には大宰府を通じて馬を朝献したという記録がありますが、とりわけ朝鮮外交においては「高麗史」「李朝実録」に藩主宗氏が米や豆、麻布など引き換えに貢物としてたびたび馬を送ったという記事が多く残されているそうです。また対馬で馬産が盛んになった1400年代後半には、馬の改良のために朝鮮馬を輸入したといわれています。このことからも、馬は古くから朝鮮との交易に欠かせない重要な役割を果たしていたことが伺えます。

政治の舞台だけでなく、小柄ながらも蹄が丈夫な対州馬は険しい山道を蹄鉄もつけずに歩くことができたため、島民の暮らしの中でも大変重宝されていました。対馬の民謡に、馬の背に荷を積んで山を越えるときに歌われた「しんき節」という馬子唄があり、山国対馬では馬がいなくては生活が成り立たなかったと誰もがいいます。

その後、明治の終わりころは4400頭、終戦の年にも2700頭ほどいた対州馬ですが、過疎化と農機具の発達、そして島外への移出などで数が激減していきます。それでも道路の整備が遅れていた対馬では、1960年代前半ころまで近隣に住む女性が炭俵を対州馬に載せて厳原の町まで売りに来る姿がよく見られたそうです。

取材当時、島には30頭ほどの対州馬しか残っておらず、地元では保存への努力が続けられていました。さらに、井さんが対馬伝統行事である初午祭で「馬跳ばせ」が復活することになったとことを話してくださいました。これは対州馬による競馬なのだそうです。是非撮影したい!そして、対州馬に詳しい波田さんにお目にかかれなかったこともあり、私は対馬への再訪を誓って、島をあとにしたのでした。

1971年にはじまった、対州馬の保存・管理

2014年10月。初午祭(はつうまさい)の開催にあわせて私は14年ぶりに対馬を訪れました。かつて、井さんのお話にあった観光施設「あそうベイパーク」だけでなく、上県町(かみあがた)には対州馬の乗馬施設「目保呂(めほろ)ダム馬事公園」もでき、今では島の馬のほとんどがこれらの施設で飼育されていました。そして、波田さんも高齢のため、2013年暮れに最後まで飼っていた牝馬を施設に預けたそうです。私はお話だけでもお伺いできればと、波田さんのご自宅を訪ねました。

対州馬は体が小さく蹄が丈夫で、それこそが山国対馬の地形に適しているということ。現在のように山道が整備されていない時代はすべて馬が交通手段を担い、医者も馬に乗って往診したこと。農作業や堆肥、木の切り出しなどはすべて馬に頼っていたため馬を飼わない家はなかったこと。そしてムクチ(正式名称は「無口頭絡」。馬の頭部につけ、ハミや手綱のついていない移動や運搬に使用する馬具)は自家製で、手綱1本で馬を御したこと。馬の鞍は、人を乗せること以外に荷物の運搬や農作業にも大変便利なものだということなど、お話はつきません。奥様の恵美子さんも、集落で婚礼があると、馬に嫁入り道具を積んでくるため、馬の数の多さで家柄がわかったという話をしてくださいました。また、止むなく子馬を手放したときには、ポロポロ涙をこぼしたと話されるお姿をみて、私もとても切ない気持ちになりました。

1971年に対州馬保存会が結成され、それまで規格や体型が定まっていなかった対州馬の第1号種牡馬を指定し、血統管理が始まりました。波田さんのお父様が飼育していた波高号という鹿毛の牡馬も昭和47年6月に種牡馬検査に合格し、対州馬の繁殖に貢献したそうです。現在の対州馬は、この波高号(なみたかごう)と黒鹿毛の重高号(しげたかごう)の血統を残しているとのことでした。

一つひとつの馬話に思いを馳せながらお話を伺っていると、ほんの30分くらいのつもりが、気がつけば2時間半もの時が過ぎていました。お茶請けにといただいた自家製のハチミツとゆで卵の美味しかったこと。ご夫妻の心のこもったおもてなしと馬話の数々に、私はこの上もなく貴重で幸せな時間を過ごすことができました。

対州馬とともに、男児の健康を祈願する

波田ご夫妻を訪ねた翌日、目保呂ダム馬事公園で初午祭が開催されました。この行事の中に「馬跳ばせ」という対州馬による競馬があります。かつて上県(かみあがた)の瀬田地区では端午の節句の折に3人の子供が亡くなったため、それ以降、男児の祭は節句ではなく、初午祭になりました。農地につくった約250メートルのコースを2歳と3歳の牡馬2頭が競う「馬跳ばせ」で厄払いを行うようになったといいます。鯉のぼりをあげる代わりに2歳と3歳の男児に相撲をとらせるのも行事の一つでした。そして、馬を走らせるのは対馬全体の中でも瀬田地区だけなのだそうです。

島中の馬が一同に集まるこの馬祭には、波田さんが育てた2頭の馬も出場していました。「馬跳ばせ」や子供相撲のほかに、軽乗や流鏑馬、障害飛越など趣向を凝らしたパフォーマンスが馬事公園のスタッフによって披露されます。さらに小学生の遊戯や太鼓演奏などに地元の子供たちも参加、そして対馬名物をそろえた露店などで会場は大賑わいです。2003年に復活した初午祭は今年13回目を迎え、すっかり対馬の一大イベントとして定着していたのです。

「運搬や農作業に使ってこその対州馬です」

対馬の人々にとって馬といえばサラブレッドではなく対州馬だと聞きました。一度は生きる道を失いかけた対州馬が島の各種イベントや初午祭などで活躍するようになったのは、地元の人々の対州馬への熱い思いがあるからにほかなりません。けれども私はふと波田さんの言葉を思い出しました。
「運搬や農作業に使ってこその対州馬です」
蹄の強さを最大の長所に山国対馬で生きてきた馬たち。波田さんの言葉には、対州馬のすばらしさが幅広く活かされてほしい、そんな気持ちが込められているような気がしました。そしていつの日か私も、対馬の山道に響く蹄の音を是非、聞いてみたいと思っています。

対馬観光物産協会
http://www.tsushima-net.org

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