#17 戦没馬への鎮魂の記し -戦後70年に寄せて-

#17

文・写真:高草操

2015.07.09

戦争で命を落とした馬たちを想う

長年日本の馬を追いかけ、その姿を撮り続けてきた私は、これまでに何度か写真展を開催し、多くの方にご来場頂きました。あるとき写真の馬たちを愛しそうに眺めておられる年配の方がいらっしゃいました。その方が「自分は戦時中、軍隊で馬の世話をしていたので、馬のぬくもりを忘れることはできません」とおっしゃいます。「馬は人を見るでしょ。私が馬に乗ろうとしてもなかなか言うことを聞いてくれなくて」と苦笑いをされ、「でも、馬って表情豊かですよね。本当に可愛いもんです」と話してくださいました。

戦争に多くの馬たちがかりだされ、命を落としたことは私も知っていました。ただ、戦時中の馬たちの話題はあまりにも辛く、哀しいものが多いため、私も取材は避けてきたのです。けれども、その方のお話を伺っていると、暗い戦時中であっても、馬と触れ合った時間は厳しい現実を離れた、ほんの少し楽しい記憶なのかもしれないと思いました。それと同時に、当時の馬たちのことをもっと知らなければいけないと思うようになりました。

駒沢に残る、軍事訓練を強いられた馬たちの証

東京世田谷の池尻・下馬から目黒東山界隈には、今も馬頭観音や馬魂碑(ばっこんひ)が点在しています。江戸時代、この辺りには狩場があり、駒場野と呼ばれていたことから、東北などにもみられる古い民間信仰によって建てられたものだと思っていましたが、実はそうではありませんでした。

明治から昭和にかけて、このあたりは旧陸軍の軍事施設が並ぶ駒沢練兵場でした。1891年(明治24年)に最初に建てられた施設は騎兵隊の兵営で、5000人の兵士と1300頭の馬が暮し、日々戦争に備えて様々な訓練を重ねていました。東山の急な坂道では6頭立て、あるいは8頭立ての馬に大砲を引かせて坂道を上り下りするという辛い訓練が行なわれていたそうです。人はもちろん馬にもかなりの負担がかかっていたことでしょう。坂道の途中にある馬魂碑の裏には、「苫良号」と「福宮号」という2頭の馬の名前が刻まれていました。そして、苫良号は腰椎骨折、福宮号は急性伝染性貧血のため1922年(大正11年)の4月と5月に相次いで亡くなったという説明書きがありました。胸が痛みました。

さらに、下馬にある団地の一角にも馬頭観音や馬魂碑が並んでいました。ここにも1936年(昭和11年)11月に殉職したという軍馬「梨山号」の碑がありました。この界隈にある馬頭観音や馬魂碑は、訓練中に命を落とした軍馬を弔うものだったのです。

伝説の軍馬、「勝山号」

明治から昭和にかけて幾多の戦争で数百万頭の馬が戦地へと赴き、中でもその多くが大陸に渡りました。馬たちは、兵士を乗せて駆け回る乗馬、大砲を引く輓馬(ばんば)、そして軍需品搬送の駄馬として人と共に戦ったのです。けれども、大陸に渡った馬たちは、戦いで命を落とすか、あるいは敵軍に接収され、二度と日本に戻ることはありませんでした。終戦まで命を長らえた馬たちも、そのほとんどが行方知れずになったのだそうです。駒沢練兵場で訓練していた馬たちもまた、同じような運命だったのかもしれません。

覚悟はしていましたが、軍馬たちの歴史はあまりにも過酷です。けれども私は奇跡的に戦地から生還し、故郷に戻った馬がいたことを知りました。それが「勝山号」でした。

勝山号は1933年(昭和8年)5月、岩手県九戸郡軽米町で生まれたアングロ・ノルマン系の栗毛の牡馬でした。幼名は「第3ランタンタン」。1歳5ヶ月で江刺市(現・岩手県奥州市)の伊藤新三郎氏に買われ、農耕馬として育てられます。従順な性格で扱いやすく、農作業もよくこなしました。また、地元の遠乗り大会などでは、乗馬としての素質も見せていたと言われています。

ただ、折しも太平洋戦争へと続く日中戦争開戦の年。急速な軍馬需要の拡大を受けて、1937年(昭和12年)9月、立派に成長し4歳になったランタンタンは日中戦争の歩兵隊乗馬として買い上げられました。当時、馬が陸軍に購買されるのは大変名誉なことでした。そして、ランタンタンは東京赤坂の第一師団歩兵第一連隊に配属され、ここで「勝山号」と改名されます。その後ほどなくして、連隊副官藤田悌二郎大尉の乗馬として、上海へ赴いていきました。

5人の陸軍士官とともに戦場へ

当時の戦況は激しく、上海上陸作戦中に最初の主人である藤田大尉が戦死。勝山号は連隊長加納治雄大佐の乗馬となりましたが、ひと月もたたないうちに加納大佐も戦死、後任で荒武者と称された飯塚國五郎大佐の乗馬となります。1937年(昭和12年)10月、勝山号は飯塚大佐とともに蘇州を攻略中、頸に被弾。1度目の負傷を負いました。治療によって快復するも再び激戦地を駆けた勝山号。1928年(昭和13年)5月には、飯塚大佐を背に徐州で壮絶な戦いを繰り広げ、今度は腰に被弾し2度目の傷を負います。さらに、3度目に戦線に復帰した8月には、廬山の戦闘で左眼上頭部に銃弾を受けるという大変な重傷を負いました。そして、このとき受けた銃弾が後々まで勝山号を苦しめることになるのです。勝山号3度目の負傷の数日後、飯塚大佐が戦死。勝山号は獣医や当番兵の6ヶ月に及ぶ手厚い看護で命をとりとめ、後任を務めた布施安昌大佐の乗馬となりました。

1939年(昭和14)年3月、日本軍が南昌を占領した時も、勝山号は5人目の主人・下川大佐を背に戦場を駆け続けていました。そして同年10月、3度の負傷から立ち直り、数々の戦歴を挙げた功により、陸軍大臣から軍馬として初めて「軍馬甲功章」を授与されました。

わずか1頭の名誉の帰還

1940年(昭和15)年1月には、下川部隊の日本帰還とともに勝山号もまた、母国に戻ることになりました。当時、軍馬は検疫や船の施設の関係で連れ帰らずに、交代部隊に引き渡すことが原則でした。勝山号の帰還は異例中の異例だったのです。そして同年2月、赤坂連隊地に戻った勝山号は、岩手から駆けつけてきた伊藤新三郎氏と再会を果たしたのでした。

やがて終戦を迎え、内地にいた軍馬の多くは農家に払い下げられました。また、食糧難の時代、肉用馬の取引が横行していたとも言われています。察するに、行方不明になった馬たちの末路はどれも哀しいものだったことでしょう。

そのような状況下でも、軍馬甲功章・勝山号は、軍の特別な計らいで伊藤新三郎氏のもとへ返されることになりました。新三郎氏の代わりに迎えにきた息子・貢氏と共に、東京から岩手まで4泊5日の旅の末、勝山号は8年ぶりに故郷の土を踏むことができたのです。自宅から10kmほど手前のところで貢氏が手綱を放すと、故郷がよほど嬉しかったのか、道に迷うことなく自宅へ向かったそうです。その後は、農作業などをして余生を送っていましたが、故郷に戻ってからわずか2年、昭和22年5月に戦地で受けた3度目の傷が元で亡くなりました。15歳でした。

本来馬は臆病な生き物です。激戦地を駆け抜け、何度も命がけの負傷をした勝山号はじめ、軍馬たちが味わった恐怖はいかばかりだったことでしょう。勝山号は戦場に散った馬たちの魂を一心に背負って生還したのかもしれません。帰還を果たしてからわずか2年という余生でしたが、勝山号は物言わぬ多くの馬たちの姿を、私たちに伝えてくれたのだと思います。

靖国神社の軍馬慰霊祭

東京九段の靖国神社に、ひと際立派な馬像があるのをご存知でしょうか。ここでは毎年4月の最初の日曜日に、満開の桜の下、馬像にニンジンや馬の好物を供え、軍馬慰霊祭が開催されています。

馬像の作者は1890年(明治23年)岩手県生まれの伊藤国男氏です。彼は10人兄弟で家計を助けるためにある彫刻家の内弟子となり、その頃に馬と関ったことがきっかけで馬像を彫るようになったそうです。騎兵学校や御料牧場を訪ねては馬像の制作に励み、やがてその作品は天皇陛下の元にも置かれるようになりました。伊藤氏はモデルとなった馬たちが次々と戦争で命を落とすことに心を痛め、全財産を費やして戦没馬慰霊像を制作しました。戦後、この馬像は台座がないまま靖国神社に奉納されていましたが、募金活動によって1958年(昭和33年)に現在の像となりました。

現在、戦争で亡くなった馬たちの慰霊祭が行なわれているのは、日本中でもこの靖国神社の軍馬慰霊祭だけだと言われています。そして、この慰霊祭は勝山号のように戦場で激戦を経験した馬、徴兵され、厳しい訓練に耐えていた馬、労役を担っていた馬など、日本全国で何らかの形で戦争に関り、命を縮めた全ての馬たちの鎮魂なのだと思います。

戦後70年。その節目の年の慰霊祭には、戦争当時を知る方から、その子や孫の世代にあたるご家族の姿もありました。人と馬が培ってきた長い歴史の中には、戦争という人間が引き起こす過ちによって、過酷な運命を強いられた馬たちがいたという事実も決して忘れてはなりません。そして哀しい歴史も伝え続けると同時に、彼らの魂が安らかであるようにと心から願っています。

えさし郷土文化館
http://www.esashi-iwate.gr.jp/bunka/

めぐろ歴史資料館(目黒区役所)
http://www.city.meguro.tokyo.jp/

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