#18 馬産地・八戸の誇り、加賀美流「騎馬打毬」 -青森県八戸市-

#18

文・写真:高草操

2015.09.17

ポロやホッケーが誕生するきっかけにもなった騎馬打毬

騎馬打毬(きばだきゅう)という伝統競技をご存知でしょうか。これは、馬上で毬杖(きゅうじょう/ぎっちょう)と呼ばれる杖を操り、地上に置かれた毬(ボール)を拾い上げ、毬門(ゴール)を目指すもので紅白対抗戦として行われます。日本版ポロというのがわかり易いかもしれません。

打毬の歴史はとても古く、古代ペルシアで武術訓練として発祥したものが長い時間をかけて世界へ広まり、国や土地にあわせて変化を遂げたといわれています。イスラム文化圏だけでなくインドやベトナム、モンゴルへと伝播し、欧米ではポロ発祥のきっかけとなりました。

日本へは唐(618-907年)を通じて伝えられ、貴族が打毬に興じる様を表した雅楽の打毬楽から始まります。続いて日本と唐の仲介役だった渤海人によって、歩打毬(=徒打毬:かちだきゅう)が移入されました。この歩打毬は、文字通り、馬には乗らず地上で行います。少年や婦人が打毬の基本技術を身につけるために設けられたとも考えられ、近代ホッケーの原型になったとも言われています。

やがて、馬の改良や馬術の普及、そして武士の台頭などによって騎馬打毬が広まり、歩打毬とともに宮廷の年中行事の一つとして行われるようなりましたが、その後は律令国家の衰退や地方豪族の勢力拡大、武士団の勃興に伴い、打毬は衰退の一途を辿ります。最後の記録は987年(寛和3年)。歩打毬が最初に記された727年(神亀4年)から260年間、騎馬打毬に至っては955年(天暦9年)の記録からわずか32年間のことでした。

江戸時代、武芸として再興するも、文明開化とともに衰退

それから遥かな時を経た江戸時代中期、8代将軍徳川吉宗によって騎馬打毬は復興します。吉宗は流鏑馬(やぶさめ)や笠懸(かさがけ)、犬追物(いぬおうもの)と共に武芸として騎馬打毬を取り入れ、日本独特の形を作り出しました。そして、江戸を往復する藩士たちによって八戸はもとより、白河、桑名、三春、松代、名古屋、福井、鯖江、和歌山、萩、徳島、高知、柳川などの全国の藩に広がったのです。

興味深いことに吉宗は武芸奨励に熱心だっただけでなく、馬にも大変な関心をもち、オランダからアラブ馬(当時はベルシャ馬と呼ばれていた)を導入したり、日本馬の改良に尽力したり、さらにはオランダの馬術を学んだと言われています。

けれども、この騎馬打毬もまた、明治の文明開化とともに衰退してしまうのです。現在、日本で騎馬打毬が行われているのは、宮内庁と山形の豊烈神社(ほうれつじんじゃ)、そして八戸の長者山新羅神社(ちょうじゃさんしんらじんじゃ)の3箇所。その中から、今回私は初めて、八戸を訪ねました。

180年以上にわたり、免許制度によって受け継がれる

八戸では、平安から鎌倉時代にかけて甲斐国加賀美郷を治めた武将であった、藩の高祖・加賀美次郎遠光(かがみじろうとおみつ)によって加賀美流の弓馬法術「騎射八道」が伝わっていました。

中でも、後家流馬術として流鏑馬、笠懸、犬追物に力を入れた8代八戸藩主・南部信真(なんぶのぶまさ)は、1827年(文政10年)長者山新羅神社を改築し、騎馬打毬専用の馬場として「桜の馬場」を開設しました。その落成を祝して、初めて加賀美流騎馬打毬が奉納されたのです。そして、この伝統を守り続ける八戸の騎馬打毬は、吉宗時代の形式を踏襲していることから「享保形式」と呼ばれています。

八戸の騎馬打毬が180年余にわたって伝統を保つことができた背景には、八戸が馬の産地であること、行事が神事として行われていること等があげられますが、最も注目すべき要因は八戸打毬会によって継承されている「免許制度」だといえるでしょう。

騎馬打毬が奉納された当時、信真は藩政改革を進め、倹約や風紀を正す意味で武芸を奨励していました。そして改革推進を担っていた臣下の野村軍記(のむらぐんき)に加賀美流の師範を命じ、「打毬印可状本状」に加え「打毬役附之巻」「打毬之巻」「打毬諸具之巻」「打毬馬場拵之巻」の4巻の印可状を授与しました。以来、この印可状を受けた者だけが道統を受け継ぎ、「打毬師範」と称されてきました。そして、騎乗者が加賀美流に入門して所定の過程を修め、厳正な審査を経て免許を取得するという制度は、今も受け継がれているのです。

騎馬打毬の主役は日本在来馬・ドサンコ

八戸の騎馬打毬は、毎年8月2日、八戸三社大祭の中日に、180年前と同じように、長者山新羅神社の桜の馬場で開催されます。1678年(延宝6年)に八戸2代藩主南部直政が領内の五穀豊穣、万民安穏、無病息災を祈願して創建したこの総鎮守は、現在でも八戸の人たちから「長者さん」と親しまれている杜。開始時刻間近になると、馬場両脇の観覧席は地元の人たちやカメラを持った観光客でびっしりです。奉納試合は、騎馬打毬が3対戦、さらに、その合間には地元の高校生による徒打毬(八戸の騎馬打毬では、徒打毬と表記される)も行われ、大いに観客を沸かせていました。

私が心惹かれたのはこの八戸の騎馬打毬で活躍する馬が、南部馬の面影を残すといわれる日本在来馬・ドサンコ(北海道和種馬)だったことです。小柄な馬体ながらも、人や荷物を100キロまで載せることができるタフなドサンコ。小さな身体を活かした小回りも得意とし、激しいぶつかり合いにひるむこともありません。さらに、サラブレッドやアラブではなく在来馬と共に行われることで、江戸当時の臨場感が伝わるだけでなく、親しみを感じることもできました。

このドサンコたちを育てている平野直(ひらの・ただし)さんによると、かつて馬たちは打毬会のメンバーが自宅で飼育していたのだそうです。馬産地であり、馬を育てるノウハウがこの地に根付いていたからこそできたことですが、近年は平野さんが主宰するPOLOライディングクラブで集団飼育されるようになりました。また、スポーツ少年団を結成して騎馬打毬の後継者を育てていますが、技術が身についたころには進学や就職のために地元を離れてしまうのだそうです。

神事としての習わしを受け継ぎ、現在も女性の参加を許さず、厳格な免許制度の下で馬術を伝えてきた八戸の騎馬打毬。けれども、この地でもまた伝統をどのように継承していくかという避けては通れない課題に直面しているのでした。

騎馬打毬のために地元で馬を育て、調教する

今回、八戸を取材し、最も強く感じたのは、「騎馬打毬が相手を殺生するための馬術ではない」ということです。それは、鎌倉時代から戦国時代にかけて発達した騎射馬術に対して、貴族が興じた王朝時代、戦が終わり、平穏になった江戸時代に再び盛んになったという騎馬打毬の歴史そのものが、物語っているようにも思います。

八戸の騎馬打毬は、実践的な馬術の訓練として優れている一面と、現代の私たちが見ても十分楽しめるスポーツとしての一面の両方を持ち合わせています。また、地元の人々が最も大切にしている八戸三社大祭の一つとして行われることも大きな特徴だと思います。騎馬打毬が奉納される日の夜には、地区ごとに作られた華やかな山車が町を往来し、祭りは大いに盛り上がりました。さらに、地元を離れている若い乗り手たちも、この日に合わせて戻ってくるのだそうです。

馬の神事や祭りは全国各地に残っていますが、供する馬は祭事のために別の場所から借りることが多いのが現状です。けれども、八戸では騎馬打毬のために地元で馬を生産・育成し、調教を手がけています。これは馬産地としての伝統と、人々の心意気が活きているからに他なりません。

八戸の騎馬打毬は、昭和46年に八戸市の無形民俗文化財に、翌年47年には青森県の無形民俗文化財に指定されました。そして、それは今の世にも通ずる魅力を備えた馬産地独特の馬文化なのです。課題は多いかもしれませんが、必ずやよい形で馬産地の誇りと共に受け継がれていくと信じています。

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