#20 ホースマンに宿る北海道開拓スピリット -北海道 苫小牧市-

#20

文・写真:高草操

2016.04.21

日本で唯一の馬のテーマパーク

北海道苫小牧市美沢。ここに広大な敷地を有するノーザンホースパークがあります。それは、日本の競馬界に多くの活躍馬を送り出すノーザンファームの代表・吉田勝己氏によって1989年(平成元年)に開園された馬のテーマパーク。北海道の玄関口、新千歳空港から車で15分という立地の良さもあり、人気の観光スポットにもなっています。

2014年9月、そのノーザンホースパークで北海道では初めてとなる障害馬術の競技会、全日本障害馬術大会が開催されました。この開催こそ、私がホースパークについて、日本の馬産について、そして北海道の開拓について、今一度取材する大きなきっかけになったのです。

そもそも、なぜそれほど特別なことなのかというと、日本では競馬や馬術の大会に出場する馬は、トラックで輸送されます。もちろん、距離が長くなれば時間も輸送費もそれだけ多くかかります。そのため、北海道で全国規模の大会が開催されるという前例はありませんでした。それでも、北海道で開催し、成功を収めることができたのは、ノーザンホースパークと勝己氏の尽力があったからです。資金面だけでなく、遠路遥々やってくる馬たちの健康に配慮し施設を開放したり、選手たちには北海道の名物を振る舞ったりと、心から彼らを歓迎したのです。

「パークは道楽のように思われるでしょう?」とにこやかに話す勝己氏ですが、私は勝己氏ご自身が、大学卒業後に早来源武の広大な土地に牧柵を巡らし、土木作業をされ、豊かな牧場を作られたことを本で読んで知っていました。だからこそ、ここに至るまでには地道な努力を積み重ねてこられたことを想像すると同時に、北海道開拓時代から受け継がれたスピリットの強さと大きさを垣間見たのです。

北海道開拓に希望をかけた南部藩士

江戸時代後期、日本の周辺には多くの外国船が来航するようになりました。とりわけ北方蝦夷地にはロシアが南下し、日露間の緊張が高まっていきます。1855年(安政2年)、箱館開港を契機に幕府は南部藩(岩手県北上市〜青森県下北半島)に東蝦夷地の警備を命じ、箱館や室蘭に陣をおいて警備にあたらせたのでした。

そして明治維新を迎えると新政府は蝦夷地の開拓に本格的に着手し、1869年(明治2年)には通常の中央や地方の制度にとらわれない独自の政策を推進するための開拓使を札幌に設置しました。そして、周辺の村に村落を建設するための移民を募集します。その中でも月寒村(つきさむむら・現札幌市豊平区)など4つの村の最初の移民は、いずれも岩手の人々であり、この中に南部藩の下級士族だった吉田善治氏がいたのです。

善治一家が北海道に移り住んだのは1871年(明治4年)のこと。廃藩置県の後に没落する士族が多くいた中で、藩政時代から蝦夷地の警備にあたっていた南部藩士は、新しい時代を生きる道を北海道開拓に見出したのです。しかし開墾は難航し、人々は伐採された木で炭焼きをしながら生計を立てていたといいます。大半の入植者が開墾に挫折して土地を離れる中、1881年(明治14年)に善治氏が亡くなり、21歳で家長となったのが、後の吉田家の礎を築く善太郎氏でした。

開墾の苦労の中から見出した競走馬産業

当時、善太郎氏に残されたのは家1軒とわずかな土地、そして馬が5頭だったそうです。しかし彼は大谷地(おおやち・現札幌市厚別区)の未開地を開墾し、厚別川上流から灌漑用水路を引いて水田、畑を造成、やがて一部落を形成するまでになりました。そして小学校の建設や、歩兵連隊設置のために自らの土地を提供して月寒村に誘致するなど、公共事業に尽くしました。

また善太郎氏は、弟の権太郎氏が情熱を傾けていた競走に適した軽種馬や軍馬の生産についても、資金援助を惜しみませんでした。当時の北海道では生活に欠かせない大型の重種馬、農耕馬の生産が主流だったのですが、その中で権太郎氏は新たな産業へと目を向けていたのです。そして、後にワカクモ、テンポイント、フジヤマケンザンなど昭和の競馬史に残る名馬を生産する吉田牧場の祖となりました。

さらに、善太郎氏は息子の善助氏を渡米させ、日本初のホルスタイン種の乳牛を購入するなど、牧畜にも尽力しました。その後、善助氏は叔父にあたる権太郎氏の影響を受け、昭和3年に白老町・社台地区ににあった徳川家の土地を購入し、民間で最初となるサラブレッドの牧場、社台牧場を開設。吉田家は、入植から約半世紀、困難を極めた開墾、寒さや飢えなど想像を絶する難局を乗り越え、類い稀なビジネスセンスで新たな産業を生み出し、北海道の地に根を下ろしました。しかし、善助氏の息子・善哉氏の前に、また新たな壁が立ちはだかります。第2次大戦の混乱に巻き込まれ、戦後は農地改革との戦いも余儀なくされたのです。

それでも善哉氏は、代々の土地を守り、競走馬の牧場を広げ、海外から優秀な血統を取り入れ、日本の競馬を世界へと押し上げました。そして、3人の息子たちに更なる発展を託しました。長男・照哉氏は社台ファーム、次男・勝己氏はノーザンファーム、そして三男・晴哉氏は追分ファームの運営を行い、互いに切磋琢磨し、巨大な競馬集団・社台グループの繁栄を築き上げたのです。

馬の魅力を伝え、馬文化を発信する拠点であり、馬の居場所でありたい

私はこれまで人の生活を担い、共に働き、生きてきた馬たちを追いかけてきました。そのため、走ることを目的として生産されるサラブレッドは、私の中では少し異なる存在でした。けれども、改めて歴史を振り返ると、サラブレッドもまた人々の生活に活力を与え、苦楽を共にしてきた、人と生きる馬なのです。

135年前、わずか5頭の馬と共に開墾に乗り出した善太郎氏のことを「この人は本当にすごかったんですよ」と、何度も話された勝己氏。そこには馬への理想を掲げたノーザンホースパークへの思いが込められていたのかもしれません。周囲から見れば、競馬とは直接関係の無いパークを運営し、馬術大会を開催するなど徒労かもしれません。それでも、勝己氏にとってパークは、強い馬を作り出すトレーニング施設というだけでなく、馬の魅力を伝え、馬文化を発信する拠点であり、何より馬たちの居場所なのです。他の誰もやらないことであっても、そこに価値を見出し、文化の創出、努力を惜しまないこと。その姿は善太郎氏とも重なります。

今、ノーザンホースパークの園内では、馬車が行き交い、ポニーショーが行われ、競馬を引退した有名な元競走馬や馬の親子がのんびりと過ごす姿も見られます。レストランやアトラクションも充実し、真冬でも大勢の海外からの観光客が大型バスで訪れていました。この穏やかな光景もまた、北海道開拓の一つの形であり、その根幹には逞しく厳しいフロンティア精神があるのだと思いました。

ノーザンホースパーク
http://www.northern-horsepark.co.jp

ノーザンファーム
http://www.northernfarm.jp/index.html

北海道開拓の村
http://www.kaitaku.or.jp

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