2016.08.29
東京都江東区、南砂。下町の風情を残しながらも、新築の家やマンションが並ぶ住宅街の一画に都内最大の馬頭観世音、「江東馬頭観世音」があります。運送会社の名前が刻まれた数多くの石柱に囲まれ、手入れも行き届いています。
この馬頭観世音を管理しているのが、隣接するビルに居を構える東京トラック同盟協同組合です。なぜトラック同盟が管理しているのか、私はすぐには理解できず、不思議に思いました。
「かつて人は、交通や運搬のすべてを馬に頼っていた。けれども機械化によって馬の力は不要になり、馬は姿を消した」。
日本における馬と人の歴史を多少なりとも知ろうとすれば、必ずこの一文に出会います。私もそのことを十分にわかっているつもりでした。けれども、今、私たちが目にするトラックによる物資輸送が、半世紀前まですべて馬力によるものだったという事実を、これまで実感することはありませんでした。
今年3月、私はこの江東馬頭観世音の例大祭に初めて参列させていただき、石柱に刻まれた多くの運送会社がもとは輓馬による運送業者だったこと、そして、そのほとんどが江東区や荒川区に集中していたことを知ったのです。
毎年3月10日に行われる江東馬頭観世音の例大祭では、埼玉県東松山市にある関東最大の馬頭観世音、上岡馬頭観世音を祀る妙安寺からお坊様が招かれて供養が行われます。参列された江東区や荒川区などの運送会社の代表を務める方々にお話を伺うと、ほとんどの方が以前は、馬車の製造や蹄鉄のための鍛冶屋、馬具職人、獣医、そして馬の仲介人など、様々な業種で馬力運送に関わっていました。
荷車の製造をされていた方のお話では、木場の材木、佐賀(江東区)の米、そして新川の鉄運搬が大きな仕事だったそうです。材木を載せた重い荷車を引く馬が川にかかる傾斜のある橋を渡るために道路をジグザグに進む姿は、当時よく見られた光景でした。中には橋を渡れない馬もいて、登りきれず途中で腹痛をおこして死んでしまうこともあり、可哀相だったと誰もが口をそろえて話されました。馬にとって重い荷車の牽引は、本当に過酷な労働だったことでしょう。そしてお話を聞けば聞くほど、馬たちを思うお気持ちがひしひしと伝わってきて、胸が熱くなりました。
また、清洲橋や永代橋の袂には馬の水飲み馬があったことも伺い、実際に行ってみたのですが、すでに整備された公園になっていて、残念ながら確認することはできませんでした。
馬力運送は健康な馬匹と車両の維持が不可欠です。仕事の半分以上が馬の世話だったといいます。運送会社の社長でトラック同盟協同組合の役員をされている方は、馬の世話に明け暮れた子供時代の思い出を話してくださいました。朝露にぬれた草を食べさせ、仕事から戻るとお湯で足を洗って水を飲ませ、夜中でも夜食を与え、日曜・祝日・正月も関係なかったそうです。大切な働き手である馬は家族同然の大切な存在でした。
かつて、栃木で開かれていた品評会で優秀な成績を収めた馬を購入していた、馬の仲介業が家業だったという方は、トラック輸送に変わってからも、馬の世話をしていた時のようにトラックの手入れをしているそうです。「馬は人を轢かない」と言われていることから、お守りとして馬の蹄鉄をトラックに必ずぶらさげているといいます。
蹄鉄を物干し竿の取っ手に使っていたこともお聞きしました。馬力運送業を営む家では、蹄鉄をさかさまにして、そこに物干し竿の両端をひっかけているそうです。馬と共に生活をしていなければ思いつかない知恵ではありませんか。私はその情景をとても微笑ましく思う一方で、馬力運送に従事する人々の逞しい生活力を感じたのでした。
かつて東京トラック同盟協同組合理事長を勤められた故渡邊喜八郎氏が、日本の競馬史上に名を残す1974年のオークス馬トウコウエルザや1977年の菊花賞馬プレストウコウの馬主だったことも、この時、初めて知りました。渡邊氏の競馬への貢献は、運輸の歴史を支えた馬への深い思いからなのかもしれません。
なぜ、江東区や荒川区に馬力運送業が集中したのでしょうか。
城東地区(現・江東区大島町、亀戸町、砂町)には、江戸時代、千葉の塩田から塩を運ぶために徳川家康の命によって開削された運河「小名木川」があります。小名木川は新川、江戸川、利根川の整備に伴って、塩以外にも近郊の農村(砂村)で収穫された胡瓜やレンコン、小松菜、ほうれん草などの野菜や、東北の年貢米など、多くの物資が行き交う江戸物流の重要な河川でした。
明治時代になると小名木川河岸に水運を利用した醤油工場や材木置き場が建設されます。インフラの整備が遅れていたこともあり、馬力の特性を活かした輸送の需要は増大しました。仕事を求めて栃木や茨城、千葉などから多くの人が移住して馬力運送に携わるようになり、工場や材木置き場等から問屋への物資輸送で活気に溢れていたそうです。
さらに、砂村(現在の東京都江東区北砂、南砂、新砂、東砂あたりの旧地名)が豊富な野菜の生産地だったため、馬糞は野菜農家で肥料として使用されました。城東地区には経済効率だけでなく、馬糞処理という衛生面においても馬力運送業が集中する条件がそろっていたのです。
馬力運送の評価が高まったのは、大正12年の関東大震災発生直後からです。一夜にして壊滅状態となった東京の町で、最初に動き出したのは荷車を引いた馬たちでした。復興に欠かせない材木運搬は馬がいなければ成せなかったといわれます。馬車運送業者が全国から集まるようになり、馬の数も3000頭を超えました。朝夕は馬車往来が頻繁で人々の通行も妨げられたほどだったそうです。
その後、世の中は満州事変、日中戦争、大東亜戦争へと戦局が拡大していきます。運送業に携わる多くの馬が軍馬として徴発され帰ってくることはありませんでした。
昭和20年3月10日の東京大空襲。木場や深川界隈は激しい爆撃を受け、運送業に携わっていたほとんどの馬が犠牲になりました。厩舎にいた馬は放って逃がしたそうですが、火の海の中を逃げ惑いながらも多くの馬が自ら厩舎に戻り、そこで焼死していたという話も、例大祭に参列した方から伺いました。しかし、空襲後、焼け野原になった市街地には、関東大震災直後と同じように荷物を運ぶ馬の姿があったといいます。なんという逞しさでしょうか。
昭和28年、江東輓牛馬車商業協同組合の168名の有志によって各地に散在埋葬されていた馬の遺骨が南砂1丁目に合同埋葬され、江東馬頭観世音が建立されました。トラック同盟にとって「守護神」と崇められる馬頭観世音の例大祭は、戦争の犠牲になった輓馬たちの慰霊祭だったのです。
トラック運送業界の方々の馬への思いは、真摯で熱いものでした。けれども馬力運送に関する資料は驚くほど乏しく、当時のことを調べるには、現在運送会社を経営する方々の記憶に頼るほかはありません。
そのような状況にあって、今や日本有数の物流業者となった日本通運株式会社が当時、会社をあげて馬力運送業に力を入れたことにも触れておきたいと思います。
戦時中の昭和16年、小運送業再編が行われ、これを統括するための企業として半官半民で日本通運株式会社が創設されました。会社は多くの馬力業者と3000頭以上の馬を所有する巨大な馬力運送会社となりますが、一方では、いつでも軍馬を徴発できるようにという軍部の目的も兼ねていました。
終戦後、運送業の機械化が叫ばれていたにもかかわらず、戦争で自動車工場が大きな被害を受けたために、貨物自動車の供給は遠く及ばず、小運送業者は馬力に頼らざるを得ませんでした。そこで日本通運の早川慎一社長は、幹部社員の馬事知識や愛馬心を高め、馬力による小運送事業の発展に力を注いだのです。
輓馬の百科事典ともいえる「輓馬の手引き」の編纂、馬産地の見学、馬生産者と馬の改良や飼育に関する綿密な交渉など、輓馬管理の徹底を図りました。その結果、輓馬の健康状態は格段に良くなり、運送業の要として大いに活躍したといいます。そしてそれは、現在の馬産や馬の育成にも通ずる有意義な方策だったといえるのではないでしょうか。
その後、馬力運送は昭和30年代前半まで活躍していましたが、荷役機械化、小型自動車の普及にともない、馬の姿は次第に消えて行ったのです。当時の日本通運が残した馬産事業や馬力輸送に関する貴重な資料は、東京高輪にある物流博物館が受け継ぎ、その姿を伝えています。
今や世界に誇る日本の物流システムも、わずか50年前までは馬がその役割を担い、私たちの生活を支えていたのです。
「かつて人は、交通や運搬のすべてを馬に頼っていた。けれども機械化によって馬の力は不要になり、馬は姿を消した」。
私は今回、この一文に込められた本当の意味を肌で感じました。トラック同盟の方々の記憶にある話をもっと多くの方に知らせたい、風化させてはいけないと心から思いました。林業や農業ではかつてのように馬と共に働く有効性を見直そうとする動きがあります。それは馬と暮らした人々の記憶からスタートしました。江東馬頭観世音に込められたトラック同盟の方々の馬に対する思いや記憶もまた、未来へつながる原動力になるかもしれないと感じています。
物流博物館
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