2016.11.07
騎馬武者たちが、勇ましく野原一面を駆け巡る相馬野馬追(そうまのまおい)は、国指定の重要無形民俗文化財の祭です。馬好きでなくとも一度は見てみたいと思う人は多いのではないでしょうか。
私が初めてこの祭を撮影したのは今から16年前、1999年のことでした。競馬場の誘導馬を引退した馬が、野馬追で毎年活躍していると聞き、友人と共に出かけたのです。
3日間に渡って行われる野馬追の初日は「宵乗り(よいのり)競馬」。相馬市の中村神社、南相馬市の太田神社、小高(おだか)神社の三社から、御神輿(おみこし)を中心に騎馬行列を組んで原町地区・雲雀ヶ原(ひばりがはら)の祭場地(さいじょうち)へ繰り出し、白鉢巻きに陣羽織、野袴姿の騎馬武者たちによって競馬が行われます。
2日目は、武者たちが街中を練り歩く壮大な行列に続いて、祭のハイライトでもある甲冑競馬と神旗争奪戦が行われます。数百にも及ぶ騎馬武者が一同に集まる様は戦国時代の合戦さながら。白熱の祭を一目見ようと全国から集まる観客の熱気もあいまって、大変な盛り上がりをみせます。
そして最終日には、裸馬を追い込み素手でつかまえて神社に奉納する野馬懸(のまがけ)が小高神社で行われます。この野馬懸こそが、古来の野馬追の姿を今に残しているとされ、国の重要無形民俗文化財の指定を受けた重要な要因になったそうです。
当時、私たちは1日目の武者行列の中に会いたかった馬の姿を見つけました。そして、その時に騎乗されていたのが田中新(たなか・はしめ)さんでした。馬をご縁に友人と私は田中さんご一家のお世話になり、幸運にも野馬追の迫力を身近に味わうことができたのです。
田中さんの家の庭には馬場と厩舎がありました。この地域では野馬追のために自宅で馬を飼っている人が多いと聞いていましたが、田中さんの家の施設はあまりにも大きく、立派で、とても驚いたことを今もよく覚えています。
しかし、残念ながら、この時の撮影を最後に私が相馬野馬追へ行く機会はなく、お世話になった田中さんご一家とも連絡が途絶えていました。
あれから16年。その間、予想だにしなかった東日本大震災、そして原発事故。相馬野馬追は、相馬市、南相馬市、浪江町、双葉町、飯館村など旧奥州中村藩の行政区によって組織された祭でした。そのため、祭に参加していた多くの人や馬たちが避難を余儀なくされ、祭の存続すら危ぶまれました。
ところが震災からわずか4ヶ月後の2011年7月、相馬野馬追は行われたのです。最盛期の2004年頃には660騎が参加していましたが、2011年は100騎にも満たなかったと聞きました。それでも当時は、執り行われたことが奇跡だったに違いありません。
震災から5年、今や相馬野馬追は復興のシンボルになっています。そして、この節目の年に私も再び、祭の撮影のために南相馬を訪れる機会を得ました。同時に、田中さんご一家にお目にかかれるかもしれない、密かにそんな思いも抱いていました。
相馬野馬追が全国的に知られるようになった所以は、やはりその歴史にあるといえるでしょう。1000年以上前に、相馬氏の祖とされる平将門によって始まったと伝えられていますが、真相は定かではありません。
最も古い記録は、桃山時代の「相馬藩世紀」(1597年:慶長2年)に野馬追を実施していたという記載があり、当時は3日間にわたり放牧されている野馬を追い捕らえ、相馬氏の鎮守・妙見社(みょうけんしゃ)に奉納し、地域の平和と安寧を祈願するという、相馬氏の年中行事でした。
当初は素朴な行事だったようですが、3代藩主から5代藩主のころ(17世紀中期から後期)から勇壮で華やかになったといわれます。野馬追の期間中、南相馬市立博物館で公開されていた「相馬野馬追図屏風」(福島県指定重要有形民族文化財)と、その原本とされる「馬追図屏風」(18世紀前期・岡田美術館蔵)には、当時の野馬追の壮大なストーリーが描かれ、そのスケールの大きさに圧倒されました。
相馬野馬追の1日目には、中村城下(相馬市)から相馬藩主と家来が行列を組んで原ノ町の宿場へ赴き、到着した武士たちが乗馬の腕を藩主の前で披露する「宵乗り」が行われました。ただ、現在のような競馬ではなく、また馬に乗ることができる人は限られていたのだそうです。
2日目は、野馬追原で「備(そなえ)」と「駆引(かけひき)」の訓練から始まります。現在、祭場地となっている原ノ町(南相馬市原町地区)は当時、広大な馬の牧場で「野馬追原(のまおいはら)」と呼ばれていました。その野馬追原で「備」という部隊の隊列(騎馬武者、鉄砲や槍を持つ足軽などから構成される)を組み、「駆引」という隊列を動かす訓練をした後、翌日、神社へ奉納する馬を捕らえるために野馬を追うのです。牧場の東側に追い込まれた数十頭から百数十頭、多いときは200頭ほどの馬たちは、野馬追原から出て「野馬道(のまみち)」とよばれる道を通って海岸へ向かいます。そして、潮水につかり休息しながら身を清め、小高にある妙見社(現在の小高神社)へと移動していきました。
3日目の最終日に行われるのが野間懸です。小高妙見社の囲いに追い込まれた馬たちが、御小人(おこびと)と呼ばれる人々によって素手で捕まえられ、神馬として妙見社に奉納されます。これは今でもほとんど形を変えずに行われています。そして、馬たちは再び野馬追原に戻され、祭が終了します。
明治4年の廃藩置県によって、藩所有の牧場の野馬たちはすべて捕らえられ、農作業用として各地に売られていきました。しかし、その土地に深く根ざしていた中村藩の年中行事である野馬追は、中村(相馬市)、太田(南相馬市原町区)、小高(南相馬市小高地区)の三神社の祭として存続されることになりました。現在2日目に行われている神旗争奪戦は、野馬を追う代わりに明治以降に誕生したものです。
かつては中村藩あげての一大行事であった野馬追ですが、時代と共に形を変え、今では誰もが馬に乗って参加することができ、威勢の良い武士たちの姿を今に伝えています。
2016年は430騎が参加し、16年前と変わらない活気に満ちた野馬追に興奮しながらも、滞在中に田中さんと会えなかったことだけが心残りでした。私にとって当時撮影した野馬追のシーンは田中さんご一家と共にあり、今でも鮮やかな記憶として残っているのです。諦めきれず、東京に戻ってから再び消息を尋ね、友人を通してようやく連絡をとることができました。そして、私はどうしてもお目にかかりたくて、再び南相馬を訪ねたのでした。
突然の訪問にもかかわらず、田中新さん(64)と、息子の一秀(かつひで)さん(38)は快く出迎えて下さいました。当時、一秀さんはとてもステキな若武者ぶりで、私はその騎乗姿に惚れ惚れしたものです。それもそのはず、彼は、高校生だった1995年の福島国体で障害馬術競技の3種目に出場し、2種目で優勝という素晴らしい成績をおさめた馬術選手だったのです。妹のまり子さんも馬術競技のインターハイである全日本高等学校馬術競技大会で優勝経験があると聞き、田中さんが馬術一家だったことを今回、初めて知りました。「あの頃は馬術の競技に夢中だったので、祭はケガすることが怖いという気持ちがありました。同じ馬に関わっていても、競技と祭では別の世界でした」と一秀さんが当時を振り返ってくれました。
野馬追には1999年をはさんで10年ほど参加されていたそうですが、祭にはいろいろな役職やお付き合いがあり、家業の忙しさも重なり、ここ数年は関わられていないとのことでした。当時馬場と厩舎があった場所には立派な工場が建設されていました。3年前に会社の事業拡張のために建てたそうですが、厩舎と馬場は近所に住む妹のまり子さんご夫婦の自宅に新設されていました。そこには3頭の馬が暮らしていました。そのうちの1頭は一秀さんとパートナーを組み、馬術大会で活躍した芦毛のサラブレッド・コルセアです。隣の馬房にはコルセアの話し相手のポニー。そしてもう一頭は、今も祭に参加しているまり子さんのご主人の愛馬・マシェリクです。一秀さんは今も時々、マシェリクに乗って乗馬を楽しんでいるそうです。
「祭も馬術もずいぶん前に卒業してしまいましたが、今では懐かしい良い思い出です」と声を揃える田中さん親子。 競技や祭を通じて馬たちと深く関わった日々は充実し、満足のいくものだったのでしょう。「この土地の人間として、祭は大勢の人で賑わい、盛大なものであって欲しいと思っています」と最後に話された言葉に、相馬に生きる人の野馬追に対する深い思いを感じました。今や3児の父親となった一秀さんと、彼に寄り添い幸せそうに余生を送る28歳のコルセアの表情がとても印象的でした。
田中さん親子のお話を伺いながら、ふと、祭の期間中に滞在したホテルのご主人の話を思い出しました。「自我流の乗り方ですけど楽しんでいますよ」と言い、普段からよく馬に乗り、60歳を過ぎた今でも祭に参加しているそうです。また、野間懸の取材では、趣味の写真撮影を心から楽しむ地元の方々とも話がはずみました。
やはり相馬は馬と深くつながった土地なのです。だからこそ相馬野馬追は数百年の歴史を重ね、訪れる人々を魅了してきたのでしょう。
「被災」という言葉に惑わされ、私はどこか重たい気持ちで祭の取材に臨んだのですが、目の前を走る騎馬武者や馬たちの勇壮な姿に圧倒され、ただただ夢中でシャッターを切りました。野馬追は無条件にフォトグラファーの心を沸き立たせます。16年ぶりにして、私はとても晴れやかな気持ちで2度の訪問を終えました。そして、新たな気持ちで野馬追の撮影にまた行きたいと思っています!
南相馬市観光交流課内 相馬野馬追執行委員会
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