UAを沖縄本島ヤンバルに訪ねて

#01

文:川口美保/写真:垂見健吾

2013.11.25

那覇空港から沖縄本島を北へ車で約2時間、許田のインターを抜けると海の色が変わる。そこからさらに北へ奥深い山へと分け入ると、原生林が残るヤンバル(山原)という地域に辿り着く。さらに車で山道へ、彼女が指定したカフェへと向かうと、オーシッタイと呼ばれる湿地帯の奥、自然の力に大きく覆われるようにしてその店はあった。

携帯の電波は届かない。同じ日本にいながら、ずいぶん遠いところまで来たと思った。

この場所に、いま、一番会いたかった人、UAを訪ねた。

1995年にデビューして以来、私はずっと彼女の歌に魅せられてきた。彼女の歌に触れると、人間が生きることの神秘、その不思議を、ひしと実感する。特にここ数作、『SUN』『Breathe』『Golden green』『ATTA』というアルバムは、自然との共生の意味や人間としてのあり方を、彼女自身が実感しながら、その中で生まれてきたアルバムだった。だからか、その時々のインタビューで彼女が話す言葉もまた、アルバムのことを語りながらも、自身がどう生きようとしているのか、その「生」の根本を問い直すかのようなメッセージとして響いてきた。

いま、UAは、この沖縄のヤンバルの地に暮らしている。長らく住んでいた関東を遠く離れ、ヤンバルに越すことになったきっかけは、2011年3月11日の東日本大震災による福島第一原発事故だった。その当時、彼女は第三子を妊娠しており、子どもたちの安全を考え、すぐに移住することを決めたのだという。

私はヤンバルに向かいながら、13年前、彼女の母親の生まれ故郷、奄美大島をともに旅した時、彼女が言った言葉を思い出していた。
「未来を思った時に、本当の自分の居場所ってどこだろうと考える。どこに帰るんだろうって」

そしていま、UAは、沖縄のヤンバルで、新しいコミュニティの中で、自分たちで野菜や米を作り、何が人間にとって幸せなのか、ひとつひとつ信じられることを実践しながらここに暮らしている。いま、彼女は、とても朗らかで、同時に、野生に近い力強い目をして、彼女の愛しい子どもを見つめている。

彼女のあの時の未来と繋がった気がした。その時、UAにとってなぜ、いま、「ここ」だったのか、その問いかけが生まれてきた。

震災後、都市から沖縄ヤンバルへの移住がもたらしたもの

——UAが東日本大震災後、沖縄のヤンバルに移住して2年半が経った。この山深い地に暮らしはじめて、まずは自身の中でどのような変化があったのか、今日はそこから話を訊いていこうかと思います。

UA まず、ここは「都市ではない」ということが大きくて、環境自体がシンプルだから、自分の感情の波や原生が浮き彫りになる場所なんですよね。コミュニティの中の人と人との距離もとても密だし、大きな変化もなく、つねに繰り返していく日常の中にいる。だから自分自身に向き合わざるを得なくて、人間の「徳」みたいなものについてすごく考える機会が多い。

というのも、人は、物事の判断を「損得」でしてしまっていることがあって、都会にいるとそれが当たり前に成立してしまっているでしょう? それが家族の中でも起きていて、たとえば子どもたちが食べることのできない実を摘んでいるとすると、親たちは「そんなことして何になるの?」と言う。だけどそれは子どもたちにとっては得をしようと思ってやっている行動ではないんだよね。それがこういう場所にいると、量ではなくて質なんだ、ということがあからさまになるから、何ならOKで何ならNOなのか、その判断はいったいどこから来ているのかということにつねに向き合わされる。

——都市は競争社会の中にあるから、何かにおいて比べることが前提となっているところがある。だから損得で物事を判断するし、都市の中では人間は欲望や損得を手放すことはとても難しいよね。

UA あとは畏れ。畏れがいろんな問題を生んでいるんだと思う。そしてその畏れや孤独というものを隠すかのように、人は欲望や変化を求めていく。この世の哀しみは、個人個人のサイズは違っても、欲望というものの中にあって、その欲望というのは孤独というものの中にあるから。

——私も長く都会で仕事や生活をしていて、競争社会が生んでしまった孤独をずっと感じている。それが嫌だから、その孤独と闘ってしまうところがあって、そういう繰り返しに疲れてしまうことはとても多い。

UA でもね、それは闘ってはいけないんだよ。闘っているのでは繰り返すだけだから、認めて、許すということだと思う。子育てをしてても実感するけれど、子どもがダメなことをした時に、「ダメダメ」の一辺倒ではやり続けるんだよね。なぜそのダメなことをやるのかという時に、認めて、許して、「ありがとう」、それでも「愛している」ということを感じられたら、やめられる。

いま、沖縄の空にはオスプレイが飛んでいるでしょ。私もずっと反対してきたし、それこそ県民大会で10万人以上の人が集まって反対をしているけれど、内地では小さい記事でしか報道されない。だけど、その飛んでいるのを見て、憎しみをオスプレイに送っても、そこでまた小さな戦争が起きるだけ。そういう状況も人のエネルギーによってなっているわけだから、それをいかに受け入れるかだと思う。難しいけれど、受け入れて、ごめんなさい、と。

日常の中に感じられる神様の存在

——いま、UAが言っているのは、古代からハワイに伝わる「ホ・オポノポノ」という教えから来たものだよね。「ありがとう、ごめんなさい、許してください、愛しています」という言葉を使うことで、自分のどの記憶がこの問題を引き起こしているかと問いかけて、記憶の中にある苦悩や滞りを手放す、という。

UA 「ホ・オポノポノ」というのは、もともとはご神事のこと。家族の中でたとえば子どもに病気が起きてしまった時に、それが治るまで、家族全員で「ホ・オポノポノ」という言葉を使い続けるというような。

——それというのは「病気という事柄」に対してということ?

UA 「事柄」だし、「子ども」にもだし、「自分」にも。病が生まれるということは、物質的なことだけでの問題ではなく、カルマやトラウマや、ちょっとした感情の積み重ねの中で生まれてくるものでもある。それは、環境に対して人間たちがしてきたこと、水を汚してしまったこととか、マクロとミクロの全部が理由になる中で病気が生まれていくから、まずはそこに気づかなくてはいけない。局部的に原因を見つけようとしても、ここまで歪んでしまったものは、それだけでは絶対に治らないから。

だけど、それでも「神」というものを信じられるでしょ?

——そう、信じられる。

UA 私もなんだよね。それは日常の中に神の存在を感じられることがあるから。いま、この庭にはカニステル(熱帯の地域に成る果物。日本では沖縄のみ収穫できる)が実っている。その実が成るのも神様の仕業だし、子どもが生まれてきていることもそう。そう思うと、子どもはもっとも親しい神様だよね。天使というか、神様の使いというか。だから現代社会は歪んでるとはいえ、大いなるものは確実にここにある。そのことにまず感謝するの。それが「ありがとう」。で、病気になるのも、気づかせてくれているということでもあるから、そこにも感謝する。

——こういう場所ではそういう日常の中にある大いなる存在に気づきやすいから、その感謝も生まれやすい気がする。だけど本当は東京にいてもできることなんだとも思う。

UA でも私は弱い人間だから、東京では不可能だった。目に見えているものがあんなに多くある状況の中ではものすごく困難だと思う。そして、私がそのことに気づいて自分が変わっていけているのは、いまのこの環境と、ここに住んでいる意識の高い人々との出会いが大きい。

——震災後、自然や環境、未来に対して意識の高い人たちや表現者たちが、多く、このヤンバルに移住してきていますね。

UA エネルギーのある人たちがこの地域にいるというのは、何かなるために集まってきているんだろうなとは思うよね。そして私もこの場所に縁があったんだよね。人は導かれてその場所にいると思うから、私はこのヤンバルという場所に何か縁があるんだろうなと思ってる。

大切なのは子どもたちの未来。お母さんができること

——震災後、その移住先にはすぐにヤンバルが浮かんだの?

UA すぐ浮かんだ。最初にヤンバルの高江に遊びに来たのは2007年。きっかけは森岡尚子さんという自然農法を行っている友人を訪ねたことだったんだけど、子どもたちが裸で外で一日中遊んで、まるで雪が降るように蛍が飛んでいる風景を見て、「なんだここは! ここは日本なの?」とすごく驚いて。でもその翌日に、ヘリパット建設反対のために座り込んでいる人たちを見た。そのコントラストにとても混乱してしまって……。

——UAはその後、高江にあるカフェ山甕でヘリパット建設問題を提起するライブも行っていますね。それはそのヤンバルで見たものへのアクションだったんだ。

UA 私があの時期、なぜ関東にいながらヤンバルの問題に取り組んでいたかというと、ヤンバルこそは「人が人であるために、必要な自然の力が残っている場所だ」と思っていたからなんだよね。そこにヘリパットを作ってしまったらその力が失われてしまうわけで、何してやがるんだという思いが強かった。

——2007年はちょうどアルバム『Golden Green』がリリースされた年でもある。UAはその時期、地球温暖化で沈んでしまうツバルという島にも訪れて、そこで見てきたことや感じたことをメディアやライブを通して精力的に伝えていたよね。

UA そのアルバムでテーマにしていたことが、「地球を眺めた時に何が起きているか」ということだったから、その高江の状況を知った時に、私はここで何か自分ができることがあるのではないかと思った。あの『Golden Green』のツアーは、全国をツアーで周りながら、ヤンバルの山甕でのライブを自分の最終地点だと決めて進んでいったところがある。

——私はこのインタビューのほんの1時間ほど前にこの場所に着いたばかりだけど、それでも身体が自然に包まれていく感覚を実感して驚いているんです。こういう自然の中では自分の存在などなんてちっぽけだと思うほどで、この自然の前にはある種の畏れさえ感じてしまうほど。これが都市が失ってしまった力なのかと思いつつも、こういう場所で暮らしてきたUAは、都市で暮らしてきた私とは、感覚の受け取り方がまったく違うものになっているだろうと思う。

UA 自然の中にいると、我を忘れるでしょ。「我を忘れる時間」って瞑想なんだよね。都会にいると時間が切り売りされている。時に追われて、時は金なりという世界だから。

——時に追われるという感覚はつねにある。

UA でも自分もついこないだまでワーカホリックの一人だったと思うんだよ。

——こないだというのは、震災前まで?

UA うん、だからよくわかるけれど。もちろんここには、かつて自分が受け入れてきた「便利さ」はない。だけど、それを受け入れることで自分が喜ぶかというと違ったんだ。だから私はいま、この場所を選んでいるんだと思う。あとは、地球という星がお母さんだとすると、ヤンバルという場所はお母さんと繋がりやすい場所だと思う。何よりも大事なのは、子どもたちの未来だからね。

そういう意味でも、いま、私がイメージしているのは、これから子どもたちの教育をどうしていくかということ。たとえば原発反対やオスプレイ反対ってデモで練り歩くのも社会運動だけれど、教育が一番の平和への道、社会運動だなと思っているんです。

未来のために、まずはお互いに知っている情報をシェアすること

——2012年、UAは「割烹着〜ず」というユニットを作って、仲間のお母さんたちと一緒に「ラブ・ミー・テンダー」の歌詞を変えて歌ったり、震災翌年の3月11日は自身が発起人となり、子どもたちの未来を考える「ティダノワ祭」を名護市で開催した。いま、思い返すと、あの「祭」で何を伝えられたと思っていますか?

UA 2011年の8月に子どもを生んで翌年の3月だったし、これまで多くのフェスを体験してきたとはいえ、作る側は初めてだったので、いま思い出すと、余裕が本当にない中でやったというのが正直なところだった。でもなぜ余裕がなかったかというと、一人でも多くの人に参加してほしいということが目標だったから。あのイベントは内部被曝の危険性を一人でも多くに伝えたいという思いから始めたものだった。それは、すべて子どもたちのため。そしてその子どもたちが生きる未来をよくしたいという想い。だから「ティダノワ祭」では、「反原発」という言い方はまったくしてなくて、むしろ未来について、新しいエネルギーの可能性を語ったり、未来への思いをシェアしたりできたらという想いが大きかった。

——その以前も、UAは六ヶ所村の核燃料の再処理問題なども含め、原発問題にはとても意識的ではあったけれど、そこに向き合うひとつの大きなきっかけは「子ども」への想いがあったということですね。そして、このタイミングでも「出産」があった。

UA 子どもを生むということは、ひとつの転機だと思うから。生まれ変われるチャンスというか。デトックスにもなっているだろうし、子どもの健康のために、自分の生活を見直す時期だろうと思うから、フレッシュな状態でまた世の中に出ていくことができる。だからこそ福島の原発事故はショックも大きかった。それもあってヤンバルまで移住して来たものの、街に出れば都会と変わらない。大型の店が並んで、どこのものかわからない食べ物が並んで、単純に言うと、愛というものが見当たらない。そういう中で、沖縄移住組だからできることがあるんじゃないかと思った。

まずは知っている情報をシェアすること。自分の経験でいうと、母性というものがいまこそ大切なんじゃないかと思った。女は「子宮を抱いている」という意味で、宇宙を抱いているというのが本能としてある。どんなに間違った食をしていても、出産するという行為の時に、誰しも命と向き合うはずで、それが本当に大きなチャンスで、戦争をしている人たちも母親が育てたんだよ、全員。だから、母親みんなが、いま、もう一度、母性というもので伝えられたらというのが、その時の強い想いだった。

——私は「ティダノワ祭」のことを知りつつも、その年の3月11日は気仙沼の慰霊祭に参加しました。14時46分、気仙沼の海を見ながら、黙祷を捧げ、失った多くの命への慰霊の祈りとともに、やはり未来への平和を願った。それはきっと全国の様々な場所で、そしてここ沖縄でも同じ想いだっただろうし、そういう意味ではどこにいてもこの瞬間、繋がっていると感じた。

UA 私たちも同じ時間に黙祷した。ひとつになるというのはやっぱりすごいことだよね。奇跡に近い。奇跡とは呼びたくはないけれど、震災による悲しい出来事に対してひとつになってしまっているということが現実だったと思うけれど、それでもひとつになれるチャンスを与えてもらったのだと思う。物事の陰陽の陰と思われることも、比べる対象によってはそれは陰ではないということがあるように、それを悲しいことと括ることではないと思うから。それは人がより良くなっていくチャンスでもあったんだしね。

——そういう時にヤンバルで出産をした、それがイベントの実現まで繋がったというのは、本当に強い想いが突き動かしたのだなと思う。

UA でもそういうふうにバーンと衝動的に何かを起こすのはすごく得意なんだけど、本当に大事なのは「持続」。そこはいまの自分のテーマで、子育てに何が大事かといったら、日々のぶれないリズム感なんだと思っていて、「アワ性とサヌキ性」という言い方があるんだけど、どうしても自分はサヌキが強い人間なんだよね。

——「アワ性とサヌキ性」とはどういう意味?

UA 「サヌキ性」は男性性。エゴ、個の感覚が強い感じ。「アワ性」というのは、世界の中の自分はひとつのカケラというか、それこそ発酵していく発酵菌の一粒という感覚。自分はワンネスというもののパートだという感覚がアワ性なんだけど、女の方が肉体的にもアワ性に近づける存在だと思っていて、だから「お母さん文化」を発酵させて繋がっていこうということを私はいま伝えている。そして自分自身もアワ性というものをいかに取り戻せるかかと鍛錬しているところでもあって。

——最初にいった「損得」も含め、結局、何をするにも、それがエゴかどうかをいかに見極めるかということ。

UA どこまで自分のエゴが入り込んでいるかということをよくよく見極めていかないと、どんなこともうまくいかないからね。パワーかフォースかという言葉があるけれど、フォースという本当の真実の力、宇宙から降りてくるような力は、エゴが入っているようでは絶対に入ることができないもの。そのことはヤンバルに来てからすごく自分で気をつけている。特に、自分は長年、UAという名前で歌手という職業でステージに立つことをやってきたから、知らぬ間にサヌキの癖がついていて、あ、またやってしまったっていうことがよくあるから(笑)。

でもいま、こうして子どもと一緒にいると、自分の時間はほとんどないから、それもまたほぼ瞑想に近いと思っていて。「私」は置いておかないと、何事も自分の優先順位では物事が進まないから、すごく鍛錬になっていると思う。

手の届く範囲で思いをシェアし、そして、愛を、命を繋いでいく

——UAは、沖縄には「お習い文化」が残っていると言っていたけれど、そこで様々な知恵を学んでいるという実感はありますか?

UA 沖縄には手仕事のこととか、生きていく知恵みたいなのを教えてくれる人が、本当にいっぱいいるんです。だからそれを学びながら、大事なのは、手の届く自分の半径何メートルというところで確実に繋がっていく、そういう毎日を続けていくことだと思う。そうすることでしか社会は変えていけないと思うんだよね。

さっきも話した「教育」ということで言えば、てぃーだキッズミュージアムという沖縄の自然と文化を通じて芸術活動をされている田中美也子さんという沖縄県本部出身の女性がいて、沖縄に伝わる「わらべうた」を研究し、それを使って子どもたちの教育を行っているんだけど、そういうところから子どもたちに教えることができないかなと、最近よくお会いして、学ばせてもらっている。

私は「教育」って「健康とは何か」ということだと思っていて、つまり、自分の肉体に宿る魂を100%使い切れる人間になれるということだと思うの。いったい自分はどんなものを食べ、どのくらいの量を食べ、どれくらい寝て、何時に起きてどんなふうにしている状態が一番自分が健やかなのかということがわかる人間になること。だけどそれがわかる人ってなかなかいないと思うのよ。やれ、インターネットだ、あと1件メールしなきゃとか、23時過ぎてるけど、まあいいや、ってなっていくと、太陽の力と矛盾している生活になってしまう。

——なし崩しになっていくと、身体のこともおざなりになる。「身体の中にある力をすべて使い切って生きる」ということに、人間として生まれた本当の意味が見出せる気がしますね。

UA そうすると自ずと何をすべきか、何がおかしいかという感覚が養われると思うんだよね。そのことを、じっくり時期を待ちながら、子どもたちに伝えていきたいと思っているんだけどね。

——いま、音楽活動は中心にはないけれど、UAは都市にいた時よりもヤンバルでの生活の方が忙しそう。

UA 人生は忙しいんだよ。「スローライフ」という言葉、おかしいと思うもん。スローライフみたいなことを言っているその生活って、本当はどこにもそういう暇ないんだよね。実を摘んでその実を全部保存食にして、できるだけ電気を使わないで掃除したりする、それをするにはどんなに時間がないかという。ボーッとか全然できないよ。いま、お米も自分たちで生産しているんだけど、沖縄は台風も多いし、去年は私も稲を全部猪に食べられたし、いろいろとやることは多い。でもほんとに沖縄にはすごい人がいっぱいいる。自分なんて、ホントすみませんっていう世界だからこそ、習い文化を大切にしている。

そして大事なのは、命を繋ぐこと、愛を繋ぐこと。ヤンバルに暮らして2年半だけど、たったまだ2年半なのかというくらい、こんなに人生の中で深くなった2年半というのはなかった。3月11日というのは自分の誕生日でもあって、あんなことが起きて、語弊があると申し訳ないんだけど、自分はそれが転機となった。そこには言い尽くせないほどの感謝があるんです。

——そういう中で音楽はどういう存在としてあるの?

UA 音楽はないと生きていけないので、いつだって考えているんだけど、ただ以前のようなシステムの中で、言うなれば、農業というか、大型な機械とか使って、いついつまでと収穫の時期を決めて計画的にやるというよりは、自然農により近いものにようやく音楽もなったのかなという実感がある。いまは芽が出るのを待っている、みたいな感覚。本当に生み出したい時は生むと思うんだよね。いまはそれを待っている段階です。

でもそんなふうにできるもの初めてで、いつも期限があったから、言ってしまえば期限を作って音楽をやっていたんだよね。そう考えると、システムの中で競争させられていたと思うし、「UA」というのは自分自身じゃなかったのかもしれない。でも自分は表現に関してだけは真摯に向かっていたことは間違いなくて、でも、同時に、表現という名の元にいろいろ犠牲にしていたんだとも思う。

いま思うのは、必ずしもメディアに乗ることだけがすべてではないということ。ということを、沖縄に来て本当に身を以て感じていますね。どんな場でも、神を感じるような意識をシェアできることはできるし、歌というのはもともとそういうものだったと思うし、そういったことをあらためて、この年で、その記憶を取り戻しているところだと思う。長い長い、自分の人生だけはなくて。

でも、ここでこうして修行して、いつか大メディアなところでも変わらない、自分の小さなお庭で歌っている時の自分と同じ自分が、ブラウン管の中で大アップで歌うことだってできるようになれたらと思うんです。断絶させたくはないの。だけどあちら側だけにいることは絶対にできなくて。

——以前、UAは、自分が帰る場所はどこなのだろうと言っていたことがある。ここは、「故郷」になりそうですか?

UA まだわからない。だけど、そういうことを感じさせてくれた沖縄は、住居としてはいつかしなくなったとしても、いつも、自分の中で、ひとつの故郷である、ということは絶対変わらないと思う。

うーあ/1971年3月11日生まれ。1995年6月デビュー。UAとして9枚のオリジナルアルバムと4枚のライブアルバムを、またAJICOやUA×菊地成孔といったコラボ作品もリリース。また、NHK教育「ドレミノテレビ」(2003) に歌うお姉さん“ううあ”としてレギュラー出演し、童謡・愛唱歌集『うたううあ』(2004)はロングセールスを記録。さらに、『水の女』(2002)での初主演を皮切りに、『大日本人』(2007)、『eatrip』(2009)など映画出演も多数。また、農的暮らしを実践しつつ、環境問題や平和を願う活動にも力を注いでいる。 UAとは、スワヒリ語で「花」という意味を持つ言葉。
[公式サイト] www.uauaua.jp

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