第1回 染織家 志村ふくみ 「人生は経糸と緯糸」

染色とは植物の命=魂を糸に移すという行為
ずっと心の中で憧れ続けていた染織家の志村ふくみさん。
彼女の染色を通してみている世界があまりにも美しく、本来、日本人とはこういう感性を持ち合わせていた民族なのではないかと思い、京都・嵯峨にある工房へお話を伺いに行ってきました。
 志村さんは染色とは植物の命=魂を糸に移す行為だとおっしゃっています。色とはそもそも形あるものではなく、光をプリズムにかけると生まれ出るもの。光とは命=魂そのものをいうのではないかと思うのです。桜色に糸を染めようと思ったら、花の咲く直前の枝で染めなければならないそうです。花を咲かせるために宿している命を頂かなければ糸にその 精=色 を移すことは出来ないのだそうです。花が咲いてしまったら   精   はそこに発散されてしまう、だからその直前で染めなければならない。
「どんな色が出るかわからないけれども、いただくんだと思った時に初めて、植物が秘密を打ち明け始めてくれる。植物は自分を投げ出して私たちに色をみせてくれる。植物に対する畏怖の念が大切です。自然との沈黙の対話が必要なのです」と志村さんはお話しになっていました。

和魂(にぎみたま)と荒魂(あらみたま)
「草木は人間と同じく自然より創り出された生物である。染料となる草木は自分の命を人間のために捧げ、色彩となって、人間を悪霊より守ってくれるのであるから、愛(なさけ)をもって取扱い、感謝と木霊への祈りをもって染の業に専念すること」―古代の染師の間に語り伝えられた「染色の口伝」の一節である。
(前田雨城著「日本の古代の色彩と染」)
植物にも和魂(にぎみたま)と荒魂(あらみたま)とがあって和魂の植物の方が色が出るそうです。わかりやすく分けると、和魂の植物とは薬草になるもので、荒魂の植物とは毒性の強いもの。しかし、この毒性の強いものこそが量によっては身体にある効力を与えたりするのも面白いところ。古代の人々はこの薬草にもなる和魂の植物で染色をしていたそうです。それを纏うことによって皮膚によかったり、心臓によかったり、また厄などを払うという作用もあったそうです。「つまり 纏う というのは魂を纏う、ということなのではないでしょうか?そういう意味でやっぱり女性は纏って、子供を抱いて、全てを包み込む、 抱く  包み込む ということが多いですよね」と志村さんはお話になっていました。

織物が表現している世界
経(たて)と緯(よこ)を交差させるというのは、文様の原点で、それは普遍的なもの。人間だけが直線同士が交わるという形を作ったのです。織物を織り上げる時、経は一度張るとそれを織り終わるまで変えることは出来ませんが、緯はその瞬間瞬間に織り込んでいくもので、常に変化させることが可能なのです。
「織物は経と緯の関係ですからね。経はもうすでに定まっている。人間でいえば先天性のものです。すでにここに生まれて来ている。自分の生きる定めがきまっていますでしょ。そこに今度はまったく新鮮な、思いがけないことがおこって、よろこび、哀しみ、いろんなことがおこって、それが緯になっていくのではないでしょうか?」
志村さんのお話を伺っていると「織物」とは「人生」そのもの、世界そのものを表現しているのだということがわかってきます。神と人間、抽象と現実、男と女、陰と陽、全てのものはこの2極を織りなすことによって生まれでている。では、その世界を織り上げる時に「色」を先に決めるのか「文様」を先に決めるのか伺ってみると「色が先か形が先かと問われれば、ほとんど一緒で、表面は色ですからね。形を色がつくりだしていくってかんじかしら」とこれまた考え深い答えが返ってきました。

世界を「繋い」で、未来を「紡ぐ」
糸を紡ぐ。
常に動く糸車に合わせ糸が紡がれていく。
心が乱れると糸の太さが変化する。
その時々の感情がそのまま糸に紡がれていく。
瞬間瞬間の思いが糸に宿る。
そこに植物の命が転写され、
それが経と緯となって
一枚の布が織り上げられていく。
私の人生が織り上がる。
そこに世界が生まれる。
糸はみな「紡ぐ」「繋ぐ」という。
母か子へ。母から子へ。
個から世界へ。
世界を「繋い」で、未来を「紡ぐ」。
志村ふくみさんから教わったこと。