第4回 染織家 石垣昭子 「記憶の伝承」

 祖母からの記憶の伝承
 竹富島で生まれ育った石垣昭子さん。生まれた時から、あたり前に暮らしの中には布を作る環境がありました。家の中でも光が入る風通しのよい一番気持ちのいい場所に常時織り機がセットされていて、お祖母さんは時間があくといつもそこに座って作業をしていたそうです。石垣さんは子供の頃からその傍らで糸を紡ぐなどの下ごしらえをお手伝いしていました。なので、自然にその技術を学んでいったといいます。
 ちょま(苧麻)を刈り取るのは春がいい、藍を建てるのは夏がいい、冬になると芭蕉を倒さなきゃ、とお祖母さんは季節ごとに植物を見ながら大忙し。植物の状態をよく観察し、それに合わせて準備を進めていく。  なんでも    時期    があるので、そこをきちんと見極めていくように、ということを体に叩き込まれました。
「やっぱり一緒に畑に入って植物を倒したり、しぶを浴びたり、手を汚したり、汗をかいたり、という体験が皮膚感覚として記憶に残っているのだと思います」

 独り立ちをして、何もかも自分の感覚を頼りにやらなければならなくなった時に、それらの体験は再び語りかけてくるかのように蘇ってきて、「こういうことだったのか!」と新たに気づかされたといいます。
 それが石垣さんと植物の初めての一対一での対話であり 旬を頂く ということへの実感だったのかもしれません。

志村ふくみさんとの出逢い
 そして、その後、三十歳を目前に染織家の志村ふくみさんと出逢います。竹富島を訪れた志村さんは石垣さんが紅花を染めているのを見て「一緒にやってみましょう」と、ご自分のやり方を教えて下さったそうです。その時に、その技術の違い、色の出方を見て驚いた石垣さんはすぐに弟子入りを決意しました。京都で志村さんと三年の月日を共にしたそうです。そこで学んだことは技術ももちろんですが、志村さんの生き様から見られる哲学だったそうです。
 そして、初めて染織という仕事を 普通に女なら誰でもやる仕事 から 一生の職業 になりえるのだ、と意識をしたとお話になっていました。

西表島は根の国
そして人生第二の転機は四十代。夫の金星さんと出逢い、竹富島から西表島に移住してきた時だそうです。当時、この二つの島は仲がいいとは言えず「何故、マラリアのある、ジャングルで住みにくい場所に移るのだ」と反対も受けました。しかし、住み始めてみると山があって、水も豊富。土地が豊かだから植物も元気で勢いがある。素材の豊かさ=自然力の強さに驚いたそうです。だからこそ見えてくる物事の根本。
「織りものというのは機織り一台あれば東京のマンションの一室だって出来るんです。感覚のいい子はそれで発表も出来る。けれども、どんどん追求して根っこの方に目を向けてくると糸や染料などの原材料がどのように出来ているのかが気になってくる。そうすると畑で植物を育てたくなるし、糸も自分で紡ぎたくなってくる。根の方へ目を向ければ向けるほど無限になっていくんです」
 こうして石垣さんの興味はどんどん深まっていき、ついには何十年も住み着いてしまうほど、この島に魅了されていってしまいました。