2011.08.26
鼓童スタッフの西田太郎です。今回は6月に発刊された鼓童結成以来の30年の軌跡を紹介した本「いのちもやして、たたけよ。」から、鼓童の舞台を目指す研修生たちが日々稽古に励んでいる研修所についてご紹介します。
「鼓童文化財団研修所」は、佐渡南東部の柿野浦(かきのうら)集落の外れにあります。鼓童村から車で1時間弱、路線バスは1日数本しかない海沿いの集落には30数戸の民家と集会所、小さな神社があるだけ。そこから山道を1.3キロほど上った所にある、廃校になった築60年の中学校の校舎を借り受けて研修所として活用しています。
研修は2年間で、太鼓の経験は不問です。毎年1月に行われる選考で選ばれた約10人の応募者が、4月に新研修生として研修所にやってきます。高校を卒業したばかりの18歳、職を捨ててきた30代、外国人もいて顔ぶれは様々。舞台に立つには1年後の進級選考と、2年の研修修了後の準メンバー選考をクリアしなくてはなりません。そして準メンバーに選ばれるとさらに1年間、鼓童村で生活をしながら公演を回り、正式な舞台メンバーとしての採否を受けることになります。
研修所の朝は早く、日直が鳴らす拍子木の音を合図に4時50分(冬は5時30分)に起床し、全員で体操と掃除をして、海沿いの道までトレーニング、その間に食事当番は約20人分の食事を作ります。朝食と片付けが終われば、9時30分からの稽古に向けて楽器の準備やストレッチ、個人練習に入ります。午前の稽古は2時間。昼食をはさんで、午後の稽古は午後2時から3時間。昼食と夕食の前後は基本的に自由時間となりますが、その日の稽古の復習、次の稽古の予習やミーティング、お礼状書きと、夜11時の消灯時間までやることは目白押しです。
研修生の部屋は、校舎の2階にある元教室を薄い板で仕切っただけのものです。通路に洗濯物が連なるように干されているようすは、古い映画に出てくる学生寮の共同生活のイメージそのものです。エアコンはなく、夏の暑さや湿気と、冬の容赦ない隙間風は、現代風の快適な暮らしに慣れた者には、カリキュラムをこなす以前の高いハードルになっているかもしれません。
2年後に準メンバーになれば、すぐ国内外の舞台に立つことになりますが、そのための太鼓や踊り、唄、笛の技術習得や体づくりが研修所の役割です。しかしそれだけではなく、能や狂言、茶道、俳句、陶芸などのほか、米や野菜づくりといったカリキュラムにも多くの時間が割かれています。
「太鼓などの実技以外に、伝統文化や暮らしの学び、農作業にも時間を充てることになった時、舞台の現場には一にも二にも太鼓の稽古が必要だという意見もありました。大切なのは、色々と教わったからすぐに何が変わるということではなく、太鼓でもそれ以外のことでも、すべてのことにどれだけ真っすぐに向き合い一生懸命な時間を過ごしたか。それが舞台上でその人が纏う雰囲気となって確かに出てくるのだと思います」(研修所所長・石原泰彦)
単なる太鼓の教習所ならば意味がない。研修所の根っこにはそんな考え方が根付いています。
研修生は4月に入所するとまず、竹を削って自分が食事で使う箸を作ります。左右の手の感覚を揃えるために、箸は利き手とは逆側で使います。太鼓を叩くバチは角材を鉋で丹念に削って何本も作る。米は春に種もみから選び、皆で田植え作業をします。そして暑い夏に草取りを繰り返しながら、秋に収穫して天日で干して脱穀まで。校庭の畑ではトマトやなす、かぼちゃなどを育て、毎日の食卓に出しています。また食事作りでは市販のだしやマヨネーズは使わず、できる範囲で自給自足し、手作りのものを味わうようにしています。少し昔の日本の暮らしに立ち戻り、一人の人間としての生活力を磨くことに重きを置いているのです。
舞台メンバーから太鼓や踊り、唄や笛の稽古を受けるのは、彼らがツアーから戻って佐渡にいる短い期間。舞台上の憧れの存在だった藤本𠮷利や見留知弘ら舞台のメンバーが研修所の講師となります。その実地の指導機会から貪欲に体に吸収し、合同稽古や自主稽古で、その感覚をより深く染み込ませ自分のものにしていきます。
研修所の木造の校舎は中学校の閉校後、取り壊しが決まっていたのですが、スタッフの山中津久美の母校だったご縁もあり、研修所としてお借りできることになりました。地元の柿野浦の人々は研修生を受け入れてくださり、春の花見や秋の磯釣り大会に声がかかるようになり、すぐ雑草だらけになってしまう道路の整備に一緒に取り組むようになりました。若者が少ないこの集落で、研修生たちは地域の人々に穏やかに見守られるように、佐渡の四季を過ごすようになりました。
佐渡には集落ごとの祭りがあり、それぞれに鬼太鼓という伝統芸能が残っています。研修生は柿野浦の春祭りに、その主役とも言える「鬼役」「太鼓役」として参加させてもらっています。祭りの季節の4月になると、2年生は鬼太鼓の指導を受けるために毎晩柿野浦の集落に通います。佐渡の人々にとっての祭りの意味を知り、生活の中の祈りから生まれた芸能を体ごと感じる。集落の一員のように育てられながら、研修所で学んだ様々なことが、点と点を結んで線になるように実感を伴って内部に蓄積されていきます。
鼓童の研修生制度は1985年に始まり、現在の柿野浦は3カ所目の拠点になります。佐渡と鼓童の結びつきは研修所のあり方に寄与するところが大きく、今や舞台メンバーの大半を柿野浦の研修所出身者が占めるまでになりました。
「研修所で過ごした2年間は、じわじわ効いてくるものだと思います。佐渡の方が家族の健康や稲の育ちを自然と思い浮かべて鬼太鼓に向かうように、舞台メンバーの芸にそういう気持ちが年とともに自然とにじんでくるんだろうなと。集落に残る人と島を出ていった人が年に一度の祭りで顔を合わせるんだなとか、その時の表情や雰囲気はこんな風だったなとか。2年間の日々のどの部分をどう感じるかは人それぞれですが、佐渡という場所に自分がいる意味、鼓童がいる意味を実感できると思います。例えば、ツアーの稽古で忙しくても自ら田んぼに足を運んだり、必要と感じた時に研修所で触れた何かにもう一度時間を割いてみる。そんな舞台と佐渡を行き交う『流れ』はもっと太く強くしていけると思います。地域から受け取る目に見えないものというのは、研修所の要素として年々大きくなるばかりです」(石原)
「求め、敬い、磨く」。「最善を尽くせ」。稽古場である体育館には、中学校当時の標語がそのまま掲げられています。太鼓打ちとして、人として向上しているか。研修生はそんな終わりのない目標に向かって、この標語を目にして毎日を過ごします。
それは舞台に立つ鼓童メンバーも同じことで、太鼓を聞かせるのはもちろん、それぞれが踠きながらも自分を磨き続けて、その姿を観客に見てもらう。ここは多くのメンバーにとって舞台人として終わりのない旅に出た出発点であり、ふと迷った時、初心に立ち返る大切な場所でもあるのです。