「のさり」の心で、水俣を生きる。

#2

写真:尾崎たまき/文:長尾美穂

2016.06.30

父母から受け継いだ「のさり」という生き方

夜が明ける。一瞬の静けさのあと太陽が昇りだすと、いっせいに生命のささやきがこだましはじめる。すべてが動きだす朝、漁師・杉本実さん(杉本家の四男)は、今日も水俣市の茂道湾から船を出し、不知火海の上にいた。「のさり」を予感しているのだろうか。一羽のかもめがずっと船と伴走している。

「のさり」とは水俣の漁師言葉で「天の恵み」という意味。大漁だったとき「今日はのさった」と言い、魚が獲れなかったとき「のさらんだった」と言う。海からの利を人智を超えたものとして感謝する美しい言葉である。そして、すべてを受け入れ、執着せずに手放す勇気をくれる言葉でもある。杉本家の両親は、人や心や地域をずたずたに分断し自らの人生を変えた水俣病すらも「のさり」と言い、受け入れてきた。どんな過酷なことがあろうとも人生に心開くそんな両親の生き方は、杉本家の五兄弟の心の血となり肉となり、生きる指針となった。

引き裂かれた「家内(やうち)」の繋がり

海の色も空の色も、群青色から青にむかうなか、実さんは両親と共に育て受け継いだ漁船「快栄丸」から、じっと波間を見つめている。「潮の流れば見よるとよ」「この潮の目には魚がおるはずだけど、レーダーには映らんね」と言いながら、今度は遠くに目をやる。かつて、父や母がしたように、目印となる山と山を結んで自分の位置を確認し、潮を見て、空を見て、風を読む。まるでレーダーには映らない魚の声、魚の気配に耳をすませているようだ。

かつて豊かな漁場だった不知火海は、1930年代から30年以上ほぼ未処理のまま排出された水銀により「死の海」になってしまった。漁の仕事は奪われ、水俣病が人々を襲い、当り前にあった日常すべてを奪ってしまった。「家内(やうち)」として親戚づきあいのようにしていた人々の関係、地域のつながりも引き裂かれた。疑心暗鬼、無視、排除、親しかった分だけ産まれる悲しい憎しみが蔓延していく。

水俣病裁判において訴訟派だった杉本さん一家はその鉾先に立たされていたと言っても過言ではない。さらに父が、母がその病に倒れ、子どもだけの生活を余儀なくされたときもあった。

水俣の海に戻った兄弟

大人たちの変っていく様をつぶさに見、弟たちの面倒を見ながら精一杯突っ張ってきたあんちゃんこと肇さん(長男)は、「もう水俣にはいたくない」と高校を卒業後、上京。しかし年月を重ねるごとに、強く重く、深く心にのしかかってくるのは故郷のこと。こんなにも心の真ん中に複雑に居座りつづける「水俣」に対して何もしてこなかった自分に気づく。「地に足の着いた生き方をしたい。水俣に戻り、水俣で生きていこう」と決心しUターン。

一方実さんはサラリーマンになったものの、子どもの頃から手伝っていた海の仕事の気持よさが忘れられなかった。「人から使われるのはいや。このなにも隔てることのない海の風景が好き。自分の一生を考えたとき、厳しい場所だけど“海”を選んだ」と漁師になる決心をした。

いまでこそ再生の象徴とされる「水俣の海」。杉本家の両親にとっては、この海こそが病に侵された体と心を救い、自らの再生の場であることを身を持って知っていた。網元の娘だった母・栄子さんは、つらい体の痛みも、漁に出ることで和らぎ、魚のキキッという声に笑顔になり、「のさり」に元気をもらった。そんな栄子さんを見て、父・雄さんも生きようと思った。海が体を癒し、心を慰め、生きる力をくれたのだった。肇さん、実さんが戻った場所、それは杉本家の太陽だった栄子さんを全力で抱きしめてくれた「水俣の海」だった。

二艘の船で網を引く、ちりめん漁

漁の一切を取り仕切る漁労長の実さんは、漁場を決めると肇さんに無線で連絡をとる。聞きとれないくらいの早く短い会話。気づくと数分後には肇さんが舫(もや)い網で結ばれた二艘の船を伴って現れる。それを待っていたかのように、船の位置、エンジンの回転数など実さんから肇さんに指示が飛ぶ。第三者には分からないタイミングで網が投げ込まれると、まさに一網打尽のちりめん(しらす)漁が始まった。

パッチ網とよばれる網をひき、三艘一組で行うちりめん漁。実さんが漁師になると宣言した当時、父・雄さんが調べ、試行錯誤し、導入をあきらめかけていた漁法である。実さんの転身により、杉本家は一大決心で資金を調達し、漁具を導入。親子三人の漁が始まった。最初から漁労長は実さん。「知恵は自分で経験して得るもの」という両親は、失敗しても不漁でも何も言わない。新米漁労長の成長を信頼して見守りつづけた。そして肇さんの帰郷で親子四人になった漁も、2008年に栄子さんが、2015年に雄さんが亡くなり、いまは兄弟で網をひく。

漁は命がけの仕事。瞬時の判断ミスや気の散漫で大事故につながる。けがなく無事に漁を終えること、それこそがいちばんの仕事だ。船を降りた肇さん、実さんも何事もなかった漁にひと安心の様子だ。

「人の口にはいるもんに毒は入れたくない」

ここからがまた大仕事の始まり。あっと言う間に痛んでしまうじゃこは、時間との勝負。水揚げされたじゃこを港のすぐ前にある「すぎもと水産」の加工場に運ぶ。間髪おかず、釜茹で作業がスタートする。塩の加減、茹でる時間などすべてが実さんの采配。網を洗い、船の掃除を終えた肇さんが加わり、無言のうちに流れるように作業が進む。海の上といい、加工場といい兄弟ならではの「あ、うん」の呼吸だ。

次から次に茹であがる先から、釜揚げ商品にするものと乾燥させていくのもに分けられる。乾燥ちりめんは、太陽と潮風のもと仕上げられる。浜辺に干されたじゃこはみるみる乾燥していく。生のときより旨みも凝縮され、保存もきく。父・雄さんの「人の口にはいるもんに毒は入れたくない」との信念どおり、保存料などの添加物は一切使用していない。杉本家のみかん山もそうだ。40年以上農薬を使わずに夏みかんやパール柑、デコボン、ぼんたん、レモン、スイートスプリングを育てている。その分、手間も時間も体力もかかる。かかりっきりで自然と対話し、自然の一部となり、そうやって最後に思わぬ「のさり」をいただくのだ。

語り部として――「自分にしか語れないものがあるかぎり」

東京時代、自分が水俣出身であることが言えなかった肇さん。「子どもたちにそういう思いをさせたくない。自らを卑下してほしくない。胸を張って水俣出身であると言ってほしい」。そのためにいまここでしっかり生き、地域のために働きたいと言う。そんな肇さんの生活は多忙極まる。まず父・雄さんの後を継いで語り部となった。「自分しか語れないものがあるかぎり、語ります」と両親や自らの体験をもとに水俣病について語り伝えている。講演、執筆、取材の依頼も多い。「最近、なにが本業かわからない」と肇さんは笑う。
「○日は東京で講演会があるけん(=漁には出られない)」「これからシンポジウムの台本書くけん(=みかんちぎりはまかせた)」とあんちゃんから、実質的に稼業を預かる実さんへの業務報告が続く。「ほいほい」と涼しい顔で受け流しながらも、待ったなしの自然相手の実さん、「はて、どうするか」とつねに思案の毎日である。

水俣の人に「笑い」を届ける、やうちブラザーズ

とある水俣病シンポジウムのホール。第一部の講演会が終わり、重々しかった空気を一掃するかのようなリズミカルな太鼓の音が響き渡る。雄叫びのような、それでいて温かい掛け声のような、「アーホイ! アホアホヘー!」の声とともに半裸に原色の化粧を施したお笑いグループ「やうちブラザーズ」が登場。よく見ると声の主は、さっきまでパネラーとして水俣病について語っていた肇さんではないか。肇さんは「やうちブラザーズ」の「はーちゃん」となって、みーちゃん(実さん)と親戚のひーちゃんを引き連れ、再び舞台に立つ。戸惑うお客さんに「コール アンド レスポンス」を半ば強要し、笑いを誘う。みーちゃんとひーちゃんのうっかりおとぼけが、さらに会場をなごませ、笑いの渦に。

「Uターンで水俣に戻ってみると、子どもの頃と変わりなく美しい山と海、豊かな自然がありました。懐かしい風景を見ていると、水俣病という悲劇は繰り返してはならない、忘れてもならないという強い思いが湧き起ってきて、自分はその過去を語りつがなければならないと思い語り部になりました」。しかし、「過去を語る」それだけではなにか足りない、と感じていた。そこでたどり着いたのが「笑い」だった。

両親が病に倒れ入院したとき、心細くてもあんちゃんはあんちゃんとして四人の弟たちを守らなければならない。責任感と気負いで肇さんは頑張った。頑張ってきつく言い聞かせ、叱ってばかりいた。しかし、それで下四人の弟たちが言うことをきくはずもない。窮地を救ってくれたのは「笑い」だった。笑っている一時だけがさみしさを忘れさせ、お互いにやさしくなれ、元気になれた。

そんな経験から、水俣の人を明るくしたい、一瞬でも日常を忘れて笑いましょうと、お笑いグループ「やうちブラザーズ」を結成した。老若男女、一度観たらみんながファンになる。16年目のいま、「やうちブラザーズ」は誰もが知る水俣のスーパースターになった。ディナーショーも開かれる。あっと言う間にチケットが完売するほどだ。「日常を忘れて笑いましょうと言っても、笑いの種は日常にあるんです。ウケるネタも身近な何気ないこと。人間、笑える日常が大切なんです」と肇さん。過去を語り伝え、地に足つけて今を生き、笑いで未来を創る、肇さん、実さん。

気づくと会場のみんなは涙を流して笑っている。笑顔、笑顔、涙、笑顔。未来の種が芽吹く。

参考文献:
「のさり - 水俣漁師、杉本家の記憶より -」(著: 藤崎童士 / 刊: 新日本出版社)

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